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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (6)

  • 表現の差別性を告発すること - 擬似環境の向こう側

    いまも昔も、ネットでのコミュニケーションでは諍いが絶えない。昨日はあちらで、今日はこちらで、といった感じで、いろいろなところで火の手が上がる。 それらの「論争」を眺めていると、対立している双方が強い被害者意識を持っていることが少なくない。とりわけそれが「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という構図を取ると、その傾向はより一層強まる。 一方には、差別によって苦しんでいたり、その苦しみを引き受けることでメディア表現のあり方を問題視する人たちが存在する。他方には、そうした差別批判によって自分たちが享受してきた表現の自由が脅かされていると感じる人たちがいる。「相手によって自分たちの権利が脅かされている」と感じる人びと同士が対立する構図が生まれてしまっているように思える。 そのような構図のもとでは、「潰すか、潰されるか」という発想にしかならず、意見の違いを認め合ったり、歩み寄りが生じたりすることはま

    表現の差別性を告発すること - 擬似環境の向こう側
  • ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側

    自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことが

    ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側
  • ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側

    在日コリアンの方々に罵詈雑言を投げつけていた男性に関する記事が話題になっている。これだ(記事タイトルを一部改変)。 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【前編】 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【後編】 力作である。著者の安田浩一さんのルポライターとしての力量を見せつける迫真のレポートと言っていい。 この記事で取り上げられている男性については、そのツイートがたまにリツイートされてくることもあり、ぼくも以前から知っていた。その内容は当に酷く、まさにヘイトスピーチと呼ぶよりほかにないものだった。それゆえ、この男性が安田さんの取材によって追い詰められていく様子に、ある種のカタルシスを感じたことは否定しがたい。 その一方で、この記事を読んで微妙な居心地の悪さも感じた。それは安田さんが男性の正体を探り当てる手法に起因している。男性のネットへの書き込みから

    ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側
  • リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側

    ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略) ナショナリズム

    リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側
  • 犯罪と差別の「一般化」 - brighthelmerの日記

    2013-11-03 犯罪と差別の「一般化」 昨日、ネットを見ていたら、こんなニュースがあった。「通称」悪用して端末不正売買 容疑の韓国人を逮捕 ああ、これで「在日特権」などと言いたがる人は鬼の首を取ったかのように大騒ぎするんだろうな、ということが頭に浮かんでウンザリした。 どんな集団であれ、善人もいれば悪人もいる。なので、ある個人の犯罪行為によってその人物が帰属する集団を攻撃するというのはやはりおかしい。日国内で日人が犯罪行為を行ったさい、日人という属性を問題視する人はあまりいない(すぐに在日外国人のせいにしたがる人は多いが)。だが、外国籍であれば同じ国籍の人全体が批判の対象にされがちだ。 もちろん、これは日に限った話ではなく、外国でも移民や少数民族の犯罪は過剰に注目を集めがちだ。先日、ギリシャのロマ集落で起きた「誘拐」事件にしても、あの事件をきっかけに行方不明の子どもが続々と発

  • 「反日分子」からの挨拶 - 擬似環境の向こう側

    ジョージ・オーウェルの小説『動物農場』のあとがきには、「英国ファシスト連盟(BUF)」のリーダー、オズワルド・モズリーをめぐる顛末が書かれている(モズリーの主張については、以前、このエントリで紹介した)。第二次世界大戦が勃発すると、英国政府はモズリーとその、そしてBUF(この頃には英国連盟と名乗っていた)の幹部を拘束し、裁判抜きに収監してしまう。オーウェルもこの措置に賛成している。 その後、1943年になるとそろそろモズリーたちを釈放しても良いのではないかという話が出てくる。モズリーとは政治的立場がまったく異なるはずのオーウェルも釈放には賛成する。ところが、当時のイギリスには強い釈放反対論が存在していた。オーウェルによれば、その釈放反対論は「民主主義を守るためには全体主義的な手法が必要」だと主張していたのだという。 その「手法」は要するにこういうことだ。民主主義を守るためにはいかなる手段

    「反日分子」からの挨拶 - 擬似環境の向こう側
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