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ブックマーク / higeta.hatenablog.com (7)

  • 「満人なんか…」 - 日本近現代史と戦争を研究する

    満洲も暮しよいです 満人なんか内地人にはびく\/して居ます そこをつけ込んで私達なんかも満人を屁とも思つて居りません嫌な奴と思つたら頭から怒鳴つてやります とても面白いです 買物などでも無茶苦茶に値切つて買つて来ます 値切れば幾らでも値切れるよ (吉林省檔案館, 廣西師範大學出版社編『日関東憲兵隊報告集(第一輯)』8、廣西師範大學出版社、2005年、456頁) ふつうの一庶民の書いた、差別意識ばりばりの手紙の内容が、名前と住所とともに史料として残ってしまっている。1942年10月15日の手紙である。通信を検閲していた関東憲兵隊隷下の東寧憲兵隊がこの手紙を没収し、記録していた。人は何気なく書いたつもりでも、70年後の今日まで残り、出版された史料集に収録されて、みんなが見れるようになってしまった。 日の敗戦により、地中に埋められたはずの関東憲兵隊の報告書類が発見・掘りおこされ、出版される

    「満人なんか…」 - 日本近現代史と戦争を研究する
    nagaichi
    nagaichi 2011/08/05
    21世紀になってもさしてメンタリティの変わらない人々がネット上のそこここに。
  • おぼえておきたい史料読解のコツ 1 - 日本近現代史と戦争を研究する

    はじめに アジア歴史資料センターの史料を各自参照することを前提としています。 (アジ歴の使い方については、以前書いたもの参照) 今回の史料 米国駐在海軍大尉秋山真之同國北大西洋艦隊乗組ニ関シ諸般ノ便宜ヲ受ケタル謝辞其筋ヘ伝達之件 明32.9 ref:B07090197000 第3画像を開いて下さい。 ポイント1 旧字体 「國」は問題ないでしょう。ほかには「與」が出てきています。これは「与」の旧字体です。旧字体と新字体の対応関係がすぐ思い浮かぶようにしましょう。 今回は出てきませんが、ぜひおぼえておきたいものとして、 舊→旧 體→体 團→団 などがあります。 ポイント2 「候」のくずし字 公文書や手紙などで用いられた丁寧語です。「候」は何度も繰り返し出てくるので、くずし字をおぼえてしまいましょう。 今回は、な感じ。ほかには、、あるいは単にと書かれることもあります。 ポイント3 決まり文句・言

  • 西南戦争と白兵戦 - 日本近現代史と戦争を研究する

    関連 http://d.hatena.ne.jp/higeta/20090921/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090918/p2 軍学校の受験に関して調べていると、主に中学生を対象としていたと思われる『学生』という受験雑誌に、陸軍大将・浅田信興が、西南戦争の回想を寄稿しているのをみつけた。 ■浅田信興「暁霧を冒して敵陣の中に駆け入り縦横無尽に清光の名刀を揮つて敵兵を斬捲つた想出」『学生』7-7、1916.7 西南戦争時、浅田は中尉であり、第4旅団、大沼大隊の副官として従軍した。 回想する浅田のテンションは高い。 忘れも為ぬ明治十年の八月十五日、彼の西南戦役に際し、日向の無鹿河畔で、軍刀を揮つて敵陣に躍り入り、腕の続く限り、斬つて\/斬りまくつた話をしよう。 元来我輩が西南の役に従軍したのは、専念実戦の経験を得んが為めであつたから、職は大村(ママ)大隊

    西南戦争と白兵戦 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 忘却の台湾 - 日本近現代史と戦争を研究する

    dj19さん引用のあわせて読みたいと あわせて読みたい。 ■松田京子「戦争報道の中の台湾台湾領有戦争の語りと記憶をめぐって―」『南山大学日文化学科論集』6、2006.3 領土の「合法的」割譲と、その地で徹底した暴力が行使されたこととは矛盾するものではない。台湾や朝鮮の植民地化が条約によって「合法的」に行われた点をことさら強調する語りは、植民地支配が暴力の行使を伴ったことを「忘却」しようとする欲望と結びついているといえるだろう。 台湾の植民地支配、それは植民地領有戦争というむき出しの暴力の行使を伴って開始された。 (31頁) この時期(引用者注―1895.5〜96.3)の戦闘は日清戦争として一括して扱われることが多く、そのことも関連して、台湾が「戦場」となったということ自体が、現在の日歴史意識の中で「顕在化」しにくい状況を生み出しているといえる。 (32頁) 最後に、宗主国内部におい

    忘却の台湾 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 「日中戦争」という呼称 - 日本近現代史と戦争を研究する

    多くの研究者は、当時呼ばれていた「支那事変」ではなく、「日中戦争」と呼称する*1。「支那」に替わり「中国」という呼び名が一般的になったことが一つの原因であるが、では「事変」ではなく「戦争」と呼ぶのはなぜだろうか。 1960年代の代表的な研究である、日国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(朝日新聞社、1962-63、全8巻)は、第3・4巻を「日中戦争」上・下としているが、第4巻、23頁に次のようにある*2。 「事変」という名の全面戦争 戦争が華北から上海へ波及するにおよんでは、もはや「事変」を短期の局地紛争として収拾する可能性は失われていた。それにもかかわらず、満州事変以来なしくずし的な武力行動の積重ねの間に鈍磨した感覚は、伝統的な中国への軽侮感情とも結びついて、政府・軍部が事態の質をみぬいたうえで、適切な政策指導を打ちだすのを妨げたのであった。 数十万の大軍を送った

    「日中戦争」という呼称 - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 台湾植民地戦争とは何か - 日本近現代史と戦争を研究する

    荒川章二氏は、1995年の時点で次のように述べていた。 今からちょうど一〇〇年前、一八九五(明治二八)年四月十七日の下関講和条約調印で、日清戦争は公式に終結した。そして現代の我々日人は、それをもって、以後日露戦争まで、日軍の対外的武力行使が中断されたものと思いがちである。しかし、条約の結果日に割譲されることになった台湾では、割譲に反対して台湾民主国建国が宣言され、日軍の占領に対し激しい武力的抵抗が展開された。…狭義の日清戦争に引き続いて、講和条約を起点として「別の新戦争」が始まっていたのである。 (荒川章二「台湾の植民地化と郷土兵」『沼津市史研究』4、1995、91頁) すなわち、下関講和条約直後の台湾については、 いわば、歴史認識のエアポケットになっていた。 実際、通史の叙述をみても、講和条約調印で次の話題に移っているものも少なくない。 その点、原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新

    台湾植民地戦争とは何か - 日本近現代史と戦争を研究する
  • 「日台戦争」と呼ぶのは誤りか - 日本近現代史と戦争を研究する

    檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、 その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、 第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。 同節251頁では、次のように述べる。 清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注―台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省や広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。 檜山氏は、日台戦争の終末を、 第二師団が凱旋した明29.5月末とみているようである。 自分たちが苦労して獲得した土地、郷土を守ろうとする者が 頑強に抵抗するのは、道理であろう。 現地に入った樺山台湾総督は、明28.6.10、伊藤

    「日台戦争」と呼ぶのは誤りか - 日本近現代史と戦争を研究する
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