ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (6)

  • inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    inumash氏からのトラックバック。>http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080401/p1 論理の筋道の問題と運動論の問題を摩り替えている、というところは、あちこちで指摘されているとおりだけど、ではなぜこれを摩り替えてはいけないのかというところを付け加えておく。つまり、この種のすり替えは、「運動論として」ダメなのだ、ということ。 だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。 その「左派に期待している/いた人」ってのは、一体誰のことで、今、何をしているんだ?「期待している」というからには、外部にいるんだから、左派じゃないんだよな。かつ、「左派を叩きたいだけの人」、つまり敵でも

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    namako8
    namako8 2008/04/07
    「観客席」批判は同意。しかし、その行動の欠如をではなく、「行動しない」という行動の効果をこそ、批判すべきか。さもないと「行動しない」という行動が「抵抗」になる可能性を「運動論として」見落としそう
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、先の記事に対して、id:ruletheworld氏から返事があったので、応答する。>http://anond.hatelabo.jp/20080331011310 「お返事」部分に対して、逐一応答していく。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミットを批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 なんというわら人形。一番質的な所が全く述べられてないんだが。その記述に倣うならこう。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミット『をチベットに関連付けする事で、来チベットへ向かうべきであった問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう事』を批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 ブコメだから適当読解で、言ってもいないことを勝手に読み取るマンはカンベンな。 要するに、自分の信奉する政治

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    namako8
    namako8 2008/03/31
    「右と左を対立させて…棄却した上で、その間に割って入って「市井の人」を名乗る」/同意。自らのイデオロギー性を隠蔽できるのは覇権的イデオロギーの特権だということを自覚して欲しい。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク - モジモジ君の日記。みたいな。

    今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。 倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ

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    namako8
    namako8 2008/03/27
    原則論の必要性。「どの」原則が原則として優先させられるべきかという点で、常に苦悩はあるけれども、かといって「是々非々」の「現実論」に逃げるわけにもいかない。
  • 小児性愛の何を問題にしたいのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    demianさんの記事とか読みつつ。>「最近のいろいろ」 セクシャルマイノリティ、という一般化 どうもこうしたテーマになると、同性愛者を迫害したり、SMやフェティッシュな志向を持つ人たちを鼻つまみものにしたりというのと同じことを小児性愛者や子供と恋愛関係になってしまう人に対してやってしまう人が多いなと。 これらはすべて、「成人対象の異性愛」という規範からの逸脱として同列に排除されてきた、という歴史はある。しかし、その意味で同列に扱われてきたということは、その含む内容において同列に扱うべきものだということを意味しない。だから、上記引用部におけるdemianさんの指摘は納得がいかない。 そもそも、同性愛やSMやフェティッシュのなにが悪いのか、僕にはさっぱりわかない。べものの好き嫌いとなんら違いが見出せないからだ。批判者の言説においても、それ以上のものを見たことがない。しかし、小児性愛において

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    namako8
    namako8 2008/03/11
    「小児…の弱さをこそ嗜好している」成人と、成人の強さを嗜好する小児との関係は、<原理的には>あり得る(approveされるべきかどうかは別)。「関係をもつ」「嗜好する」の内容も含め、より詳細な検討が必要では。
  • ポスト「ポスト・モダン」に向けて - モジモジ君のブログ。みたいな。

    バカには何を言っても聞かない、という人がいる。悪い奴は確信を持って悪いことをやっているのだから、「それは悪いことだ」と言っても無駄だ、という人がいる。バカや悪人に向かって「説教」するよりも、もっと「現実的な方策が必要だ」、とかなんとか言う。それを「プラグマティズム」とか自称していたり。──プラグマティズムってのは、そこまで底の浅いものではないはずだけれど、それはまぁ、よしとしよう。しかし、こういうことを言う人の「現実的」というのは、一体なんなのだろう。 自分がバカだったとき、悪人であろうとするとき、そういうときのことを考えてみる。その自分を押しとどめるのは、自分以外の誰かの行為であり、言葉であり、それらの自分以外の誰かが発するメッセージだ。その誰かとは、目の前の誰かであることもある。そうではないこともある。かつて、僕に向けて発せられたメッセージが、時を経て、僕の目を開かせることもある。たと

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    namako8
    namako8 2008/03/05
    pomo批判としては王道だとは思うし、気分的に同感するところも多い。「蛮勇を奮い起こす」という名目でためらいの煩わしさを回避することさえなければ。
  • 「消極的支持」の欺瞞こそ全体主義の始まり - モジモジ君のブログ。みたいな。

    【nichijo氏の指摘により、追記を一部修正、末尾】 「消極的支持がない絶対的支持の投票は全体主義の始まり」(@手記)を受けて。 選んだ人が主観的に何を考えているとしても、ある候補者を選ぶことは、その候補者の掲げる政策に対して、全体として、「イエス」と言うことにしかならない。私たちは、ある候補の掲げる政策に対して、全体として「イエス」と言うか、全体として「ノー」と言うか、そのどちらかしかできない。言うまでもなく、私たちは個々の論点について、異なる意見を持つことがある。しかし、私たちが持つ選挙制度においては、それを表現する手段はない。理不尽なまでに縮減された選択肢の中から、選ぶしかないのだ。そういうものである。 私たちが持つ選挙制度が、候補者に対する投票としてなされている以上、これは形式的な意味で真である。これは事実であって、異論の余地はない。それが理不尽であるとしても、理不尽な事実がある

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    namako8
    namako8 2008/02/07
    意図と機能との乖離。「投票による選択は政策の積極的かつ全面的な支持を意味しない」→「それを全面的支持として機能させうる制度の中にあって、その支持についての責任をどうとるのか」
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