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2010年7月20日のブックマーク (2件)

  • 「僕達の職業訓練」とは何か――佐々木輝雄講義録より - もどきの部屋 education, sociology, history

    むかし,いまから15年ほど前,その被差別部落は日でも有数の大規模部落であったが,1990年代半ばのその時点で私がそこに行ったとき,その地区で現役の高校生は1人しかいなかった。中卒で働くか,高校に入学したとしても1学期のうちに退学するのが通例だったからだ。 「中卒で働く」とか「高校を中退」という事実に「貧困」がかかわっている,というのは正しいが,しかし,不十分である。ほぼ全員の教師も含めた地区外の人間からもたらされるさまざまな有形無形の差別,それを避けたいと思う心性――当然の心性――が複合的に折り重なってかれらを下層へと押し留める。規模が大きいだけに,そのような不愉快な「外の世界」との接触をもたなくとも,地区内に留まっても生活が――最低限の生活が――成立するがゆえの低進学状況であったかもしれない。 私が「職業訓練校」――高等学校,ではなく――に通っている/いた,という人間と直接の接触,面識

    「僕達の職業訓練」とは何か――佐々木輝雄講義録より - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 日本のポストモダン教育学の原点? - shinichiroinaba's blog

    森直人のエントリに補足。 ただ単にイリイチ流脱学校論のアカデミック教育学における受容のさきがけというにとどまらず、日社会科学におけるポストモダニズム受容の、最初期における水準を示すと思われる、故森重雄の「批判的教育社会学」の問題意識は大略以下のようなものである; 「教育」というカテゴリーは決して自明の、あるい歴史貫通的に人類普遍の何ものかではない。伝統的な(規範的)教育学はしばしばそのことに盲目であった。そもそも「教育学」は「教育」という対象を分析する科学ではなく、「教育」という営みの内在的構成要素である。 これに対して「教育社会学」は「教育」を外的な対象とし、その客観的な分析を標榜する。しかし素朴なタイプの「教育社会学」=「社会学的教育分析」は「教育」という対象の実在性も、「社会学」という方法の堅固さも疑わず、「社会学」によって「教育」を分析しようとする。 しかし第一に、そもそも「教育

    日本のポストモダン教育学の原点? - shinichiroinaba's blog
    namawakari
    namawakari 2010/07/20
    “「社会学」という営みは「近代性」の自己省察でなければならない。そのことに無自覚な「社会学」は…「近代性」の単なる内在的構成要素に過ぎない”