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ブックマーク / morinaoto.hatenadiary.jp (27)

  • ボーダーフリー大学、ブタとハマグリ、産業化 - もどきの部屋 education, sociology, history

    またダラダラと、フラフラと書く。 「ブタ」と「ハマグリ」 先日、ツイッターのタイムラインを眺めていたら、大学教員アカウントを中心に、「教育困難大学」なる語を冠した記事が少しくバズった(リンクは貼らない)。元高校教員の教育ライターによるもので、以前は高校段階における「教育困難校」ルポ風記事で見かけたお名前である。 記事の趣旨を好意的にとれば、ユニバーサル段階――とはいえ4年制大学でようやく5割、OECD諸国のなかで低めの進学率だが――を迎えた大学が抱える課題を、(後期)中等段階の「教育困難校」における教育実践面での「困難」の延長上に把握しようとする問題提起、となろうか。 だがすでに「ボーダーフリー大学」、「マージナル大学」、「ノンエリート大学」、もっと下卑たところでは「Fラン(ク)大学」などの呼称で、類似の学生の現状も教育現場の実態も、それに正面から向き合う数々の教育実践の模索もその課題や意

    ボーダーフリー大学、ブタとハマグリ、産業化 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 根本問題 - もどきの部屋 education, sociology, history

    「話のポイントがずれている。これまで公教育から排除されていた異質な要素を新たに組み込むのだとして、それでもそれが『公教育』であるという、その新たな境界線はどのように引かれるのか。新たに構想されるべき教育の公共性、教育の公共的意義をどのように主張していくことができるのか――それこそがこの法案の提起した最も重要な論点であろうと思うのだが、その点について、何か展望をお持ちであればうかがいたい。」 大略、そのような主旨であったと記憶する。ある小さな法案をめぐって開催された、ある小さな勉強会の席でその質問が発せられたとき、私は思わず息を呑んだ。というのも、それはほとんど「『公教育』とは何なのか」という問いと同義であると思われたからだ。もちろん、というか少なくとも私が思うに、「公教育」とは何かという問いに対しては、歴史規定的な回答しか与えることはできない。だがそれでも、「公教育歴史的概念規定」という

    根本問題 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 「頭の悪さ」 - もどきの部屋 education, sociology, history

    社会学は、たとえば経済学がそうなっているような意味では学問として体系化されにくく、体系化されていない。だから学問の習得のプロセスでは、自分の問題意識を明確なかたちで言語化し、具体的な対象との関連のもとで、問いや「視点」や手法を一つひとつ「カスタマイズ」――といってまったくの「自己流」ではもちろん困る――して組み立てていかないといけない。 比較的に漠然とした研究計画で入学してくる院生をみていると、そのことがくっきりとわかる。フィールドワークでやる、といっているのに、計量的手法でないと解けないような問いを立てている、というような状態が長く続く。だからゼミでは、問題意識と対象と問いと視点と手法と……のあいだにある、微妙だが重要なずれを、参加者との討論のなかで検討し、まずは可視化し、いったん壊して、組み立て直して、また修正して、というのを繰り返していくプロセスとなる。 修士論文が書けた、というのは

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  • (レジュメ) 「天野郁夫と教育社会学――近代化論から(比較)高等教育システム論、その歴史研究へ」 - もどきの部屋 education, sociology, history

    そんなわけで過日、日教育社会学会がこの数年取り組んでいる「若手研究セミナー」なる企画のなかで、天野郁夫による講演「私の教育社会学研究50年」のコメンテイターなる意味不明の役を務める。斯界を代表する研究者の半世紀におよぶ研究生活に「コメント」もなにもないわけで、とかく「ご説拝聴」になってしまい若手と講演者との質疑応答が沈滞しがちという危惧へのカンフル剤として働けばよいものと割り切る。事前にもらった講演レジュメにある浩瀚な研究業績の時系列的羅列を思いきって構造化し、聴衆が奥行きをつけて「読める」ように補助線を引くだけの簡単なお仕事。。。のはずが、90分を越える講演のあと15分ほどの休憩のあいだに拙レジュメが配布され、休憩時間中ずっと隣の席で天野郁夫がそれを熟読するという名の罰ゲーム。後悔先に立たず。 とはいえ、率直にいって、この仕事は引き受けてよかった。指名してくださった方々には感謝したい。

    (レジュメ) 「天野郁夫と教育社会学――近代化論から(比較)高等教育システム論、その歴史研究へ」 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 年末につき覚え書き - もどきの部屋 education, sociology, history

    とくに誰に求められているというわけではないけれども。 夏の終わりのある飲み会をきっかけに、今までにないドライヴ感でものを考えた今年の後半であった。おおきく言えば、「教育の機会均等」ということについて。あるいは、教育と福祉の境界と接合について。数年前の研究会がらみで(机上で)考え、宮寺編『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)や広田・宮寺編『教育システムと社会』(世織書房、2014年)などで散発的に書いたものはあるが、もっと格的に考えざるをえない模様。まだ自分のなかでも十分整理できていない。 「教育の機会均等」という理念はあるが、それがどのような表現型において実現されるかには多様性と可変性とがある。「教育の機会均等」の実現には公的な教育支出に負うところが大きいが、さまざまな教育資源がどのように配分されるかを決める仕組みについて、われわれは明確には知らない。「均等」からの偏差を克服

    年末につき覚え書き - もどきの部屋 education, sociology, history
  • (何かの予告としての)教育政治の思想地図 - もどきの部屋 education, sociology, history

    「戦後教育学」の捉え返しは、昨今の日教育アカデミズムで一つの潮流をなしている感があるが、教育社会学界では、広田照幸が『思想』2007年第3号(岩波書店)の「思想の言葉」に寄せた「教育学の混迷」が一つのスタンダードな認識となってしまい(かつて自分が書いた小文にも、そのまま借りた部分がある)、ごく一部の例外を除いて、それ以上の議論の深まりをみせていない。 また、昨今の教育政治をめぐる認識としても、同じく広田照幸が『格差・秩序不安と教育』(世織書房、2009年、ただし初出はさらに前)で提示した「三極モデル」――旧来保守・新自由主義・社民リベラル――がしばしば参照されるが、そのことによって、これまたそれ以上の議論の深まりはみられない。 そうすると、「戦後」についても「現在」についても、日教育政治をめぐる認識の初期値を与えているのは広田だということになるわけだが、それは彼が何か「政治」に関し

    (何かの予告としての)教育政治の思想地図 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 彼の話 - もどきの部屋 education, sociology, history

    「先生に悪気がないことはわかっていますし、たぶんご自分では気づいていらっしゃらないのだと思うのですが、」 と、その学生は私のある講義終わりのレスポンスカードに書いていた。 「先生はとても簡単に“バカ”という言葉を使います。はっきり言って不愉快です。」 彼の言うとおり、指摘されるまで自覚はなかった。そして、悪気もなかった。 「実態は○○なのに△△なんていう政策を進めようとしている時点で、まったくバカじゃないかと思いますね」「バカみたいな話です」「バカか、と言いたくなるでしょう?」といった風に、それまでの私は、何かへの、あるいは誰かへの軽侮の念を込めた批判 非難の意志を表すとき、「バカ」という言葉をとても安易に、それゆえ頻繁に用いていた。 彼は続ける。 「僕は小学校時代、特殊学級に入れられたことがあり、同級生たちに“バカだ、バカだ”と言われ続けて、さんざんバカにされました。“バカ”という言葉は

    彼の話 - もどきの部屋 education, sociology, history
    namawakari
    namawakari 2014/06/02
    教師はしばしば生徒から教育される。/後半も重要。
  • 「教育の論理」 - もどきの部屋 education, sociology, history

    正直しんどい(報告) 先日司会を務めた「教育歴史社会学コロキウム」終わりの懇親会でも途中で力尽き、思いっきり舟を漕いで寝てしまったことであり、報告者の先生はじめ周囲の方には大変失礼で申し訳ないことをした。 そんなわけで、リハビリがてら備忘。 (※ 以下、当日の報告内容に言及するが、すべて私の解釈を経たものであるので、報告者の意図や主張とは異なる誤解・誤認が含まれうる。その責は一に私にある。また報告内容の実質にあたる部分には一切言及しない。ご関心の向きは下記文中にでてくる報告者既刊の著書・論文に直接あたってほしい。) 当日は当コロキウム3回目にして、私にはもっとも刺激的な会となった。 データ分析が面白かったのは岩井先生のご報告である。SSMデータを合併してライフコース視点から計量的な分析を施す、という方法はかねてから岩井先生の採用するところであるが、今回は55年と65年データの合併により、

    「教育の論理」 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • “広田・橋本・岩下編 『福祉国家と教育』を読む(提案)” 前編 (てか前置き) - もどきの部屋 education, sociology, history

    いや書いた人の一人なわけですが、という話ではある。 そしてあらかじめ断っておきたいが、エントリは前置きだけに終始する。 それにしても、この(広田照幸・橋伸也・岩下誠編『福祉国家と教育――比較教育社会史の新たな展開に向けて』昭和堂、2013年)を通しで全編読んだ/読めた人というのは、たぶん現時点で地球上に6人ぐらいしかいないのではないか。そのうち3人は編者だろう。「読めて」いるかは怪しいが、私は「読んだ」。しかしそれは「一冊通しで何が言われているか報告してほしい」という依頼を受けたからである(エントリに続くであろう「後編」は、そのざっくりとしたメモを予定している)。 このを手にとった人のほとんどは、自分の(研究)関心に近い時代/地域を扱った章のみの「つまみ読み」といったところだろう。素人さんはまず手にとらない。ということは「営業」的には苦戦である。昭和堂さん、がんばって。編者の一人

    “広田・橋本・岩下編 『福祉国家と教育』を読む(提案)” 前編 (てか前置き) - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 『ある精肉店のはなし』をみたはなし - もどきの部屋 education, sociology, history

    年明け初回のエントリに去年の話というのもなんだが、年の瀬の空いた時間に映画を観てきた(※例によって最低限の注意は払ったものでありますが、以下、一定のネタバレを伴うことをお許しください)。 『ある精肉店のはなし』(監督:纐纈あや, 2013年, 日)。大阪府貝塚市、仔牛の買い付け・肥育、屠畜・解体処理から卸売・小売・移動販売までを家族経営で手掛ける「生産直販」が看板の北出精肉店。冒頭、ふつうの住宅街とおぼしき路地を一頭の牛が引かれていく。行先は貝塚市立と畜場。1910年設立、2012年3月に閉鎖され、102年におよぶ歴史を閉じた。この「日で一番小さな屠場」が閉鎖される間際の北出家の日々を追った、108分のドキュメンタリーである。 冒頭から引き続く映画の導入部は屠畜のシーン。ノッキングハンマーの一撃でドッと倒れた牛の額の小さな穴にワイヤーを通し、その巨体から急いで血を抜き水で流す。一刻を争

    『ある精肉店のはなし』をみたはなし - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 課題研究 - もどきの部屋 education, sociology, history

    新自由主義が格差拡大をもたらした、と言われたりする。あるいは、小泉改革が(死語?)、とも言われる。 1990年代に入る頃から教育改革も進展して、2000年代にはすごいスピードで加速した(ように感じる)。今も続いているのかもしれない。それは公教育の世界に「市場原理」を導入するものだ、と言われたりして、時期も時期だし(90〜00年代)、「新自由主義的な教育改革」なんて言う人もいた(気がする)。私も言ったかもしれない。教育の格差や子どもの貧困の拡大をもたらした元凶だ、と言う人も多い。 少し教育を知っている人だと、ああ、これはそもそも臨教審が、なんて言う。臨教審とは中曽根内閣の頃の臨時教育審議会のことで、もう今から30年近くも昔のことだ。教育の自由化、とか個性重視の原則、とかがマスコミにも大々的に取り上げられて、人口に膾炙して、これがそもそも「新自由主義」の源なんだ、って言う人がいる。画一・一斉・

    課題研究 - もどきの部屋 education, sociology, history
    namawakari
    namawakari 2013/12/25
    “何かを“イデオロギー”だと断じてしまえるためには、それなりの分析というものが必要なのだ(というか、分析なき批判こそが“それ”に実効性を与える)”
  • 『サウダーヂ』雑感 - もどきの部屋 education, sociology, history

    ※致命的なものはないよう書いたつもりですが記事の性質上ネタバレ皆無というわけにもいきませんので、以下読み進められる方はあらかじめ悪しからずご了承ください。それと、万に一つの誤解もあってはいけないので蛇足ながら申し添えますと、私は同姓同名の映画評論家の方とはまったく別人の、社会学を生業にする、ただのしがない大学教員でございます。 ということで、今さらだけど富田克也監督作品『サウダーヂ』(2011年、制作:空族/『サウダーヂ』製作委員会)を観てきた。最初の公開期間に行きそびれ、その後全国各地の劇場で上映されるも日程調整しきれず、気がつけば上映館がなくなり、DVD化もしない方針と耳にして、先に立たない後悔の念に打ちひしがれていたところ、GWから5月10日にかけてオーディトリウム渋谷にて上映(35mmフィルム・英語字幕付き、167分)との情報入手により大願成就(おおげさ)。 すごくよい映画である。

    『サウダーヂ』雑感 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 選択肢 - もどきの部屋 education, sociology, history

    ちょっと調子もよくなかったし、なんかしゃべるような感じでもなかったわけである。だがせっかく無理して足を運んだことでもあるし、少しだけ感じたことを記しておく。 「教育と職業・政治 再論」という発題なのだが、いったいぜんたい「職業教育」と「政治教育」がどうして対抗関係、みたくなっているのか、いくら考えてみてもよくわからない。しかも「再論」とか言われて、いつ論じたことになっていたのか、と思って読み直すと昨年の研究会で教育と職業の関連性と教育政治の関係性とが焦点になったからだと書いてある。でもそれは濱口桂一郎と小玉重夫を呼んだからだろうとしか思えないわけだが、しかしこの二つがなぜか交差する二軸みたく扱われることとなった。 一つ気になったのは、この二軸でできる四象限に各論者をプロットした報告があって、広田照幸もそこに位置づけられたりしてまあそれはどうでもよいのだが、『陸軍将校の教育社会史』という

    選択肢 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 『絶望の国の幸福な若者たち』雑感 - もどきの部屋 education, sociology, history

    既視感 古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011年)というを読んだ。先月末のテレビ朝日「朝まで生テレビ」でのお題になる程度には話題になっただ。 著者は1985年生まれの26歳(刊行時)。この若さですでに『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書、2010年)とあわせて2冊目の単著。著者自身が「若者」世代だという位置づけも加わって、マスコミの話題にはなりやすく、またそれゆえにずいぶんと毀誉褒貶も激しい。大人気ない罵倒や感情的な表現に流れた反発・批判も寄せられたようである。そのなかには著者の肩書が「社会学者」となっていることに向けられたものもあった(どうでもよい)。 私はというと、率直に言って、面白かった。「若者論」の体裁をとった現代日社会論である(現代日の「一億総若者化」というのも書の主張するところである)。読み始めてから一気に読了まで

  • 私語する学生、居眠りする学生 - もどきの部屋 education, sociology, history

    学生の受講態度のだらけぶりに呆れ果ててしまって、もう大学で教鞭をとる気も失せるほどらしい(伝聞)。 たしかに、講義中に私語する学生はいるし、居眠りしている学生もいる。後者は他の受講生の邪魔をしていないぶん前者に比べればどうということもないはずだと思うのだが、何時間もかけて講義ノートや配布資料を準備した教師の側からすれば許しがたい受講態度と映るのかもしれない。教える側にとって自分が教えている内容が有する価値というのは自明でもある。それに価値を見出さない(かに見える)学生の姿は許容しがたいものに違いない。 ......などとわかった風に書いてみたが、正直に言うと、そういう教師の発想というのは私にはちょっとよくわからない。あなたは講義中に居眠りしたことがないのか、あるとすればどのような講義の時にそうだったか、と問うてみたい気もする。 しかし私語は教師としては困る。真剣に講義を聞こうとしている学生

    私語する学生、居眠りする学生 - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 計量・歴史・データ批判 - もどきの部屋 education, sociology, history

    (今日のエントリはここしばらく続いた一連のエントリ群の話題から少しそれて、研究者、それもごく一部の関心を共有する人にしか関係がない話です。書いておいてなんですが、ここに来られるそんなに多くはない皆さんのうちの多くの方にとっては読む時間的コストパフォーマンスの悪すぎるエントリですので、スキップしてどこか別のサイトに行かれるか、なにか別のことをされるようお勧めします。) 『教育と平等』雑感、と題したエントリはあるいは好事家がたいした生産性もない話題にぐだぐだと時間をかけた饒舌に映ったかもしれない。そんなことにかける時間があったら生産的な仕事をもっとしろ、という先達の叱咤はもちろん謹んで承るところであるが、その意図の一端ぐらいは記しておいて無駄でもないかと思いたい。 かつて数理社会学会の『理論と方法』という雑誌で「計量歴史社会学」という特集があった。日の計量社会学で明瞭に一つの主流であったSS

    計量・歴史・データ批判 - もどきの部屋 education, sociology, history
    namawakari
    namawakari 2011/09/26
    ”過去のデータをいじっていたら自ずと歴史研究になっている、というものではない”
  • 大衆教育社会と/の教育改革――苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書)を中心に - もどきの部屋 education, sociology, history

    昨日、越後湯沢にて、拙稿「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」(宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』岩波書店、所収)を参考文献に指定させていただいたうえで、苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)を中心とした苅谷的な戦後日教育史像=大衆教育社会論とそのもとで展開した90年代以降の教育改革を考えるセッションを開催し、話題提供を行った。 題目は「大衆教育社会と/の教育改革――苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書)を中心に」である。 もちろん、苅谷先生じきじきのご参加もあり、夜中までかけてエンドレス議論を繰り広げたわけである(途中から、というか最初から飲み会モード全開であったという事実は伏せておくことにしよう)。 上記の拙稿は『教育と平等』ですでに苅谷先生が論じている問題を参照しながらも、明らかに、さしあたりそれを等閑に付し、あえてそこから教育実践レベル(書の言葉で

    大衆教育社会と/の教育改革――苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書)を中心に - もどきの部屋 education, sociology, history
  • (続)「個別化・個性教育」という2つの実践――「ガンダム」か「GM」か - もどきの部屋 education, sociology, history

    もう件の宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』岩波書店は発売ですね。いい加減、くどくなってきましたね。それでは、もう文のほうは手元にあるものとしてエントリを続けます。ブログだけでは詳細が判然としないところもあるでしょう(当然)。それはを買って読んでください(テキスト指定)。なにせここまでの一連のエントリとこれからの一連のエントリは販促のための宣伝活動なのです。 苅谷剛彦氏は「子ども中心主義」の教育、「個性の尊重」だとかそういうのを謳った教育実践を格差拡大をもたらすものだとして論難したが、そこにあったのは「個性尊重の教育実践」でもなんでもなく、端的な「教育実践の不在」であった。ではなぜ「教育実践の不在」がもたらされたかというと、先駆的実践の理念と手法が中央政府に引き取られ政策化される際に《通俗化》の変換が加わった故である。その《通俗化》の変換が加わったあとの――教育の個性化でもなんでも

    (続)「個別化・個性教育」という2つの実践――「ガンダム」か「GM」か - もどきの部屋 education, sociology, history
  • 「個別化・個性化教育」という同じ名で呼ばれる2つの実践――「ガンダム」か「GM」か - もどきの部屋 education, sociology, history

    さて、拙稿に「書かなかったこと」や「書いた後に考えたこと」、それも拙稿が記述の対象とした人びとと議論を交わすなかで「考えたこと」を紹介していくためにも、拙稿が何を書いたものかについて、最低限の了解をもっておきたいと思います。 『再検討 教育機会の平等』の編者である宮寺先生執筆の序論から拙稿の内容をコンパクトに紹介した部分を抜き出します。 第五章の森論文(個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から)では、一九九〇年代以降展開されてきた「教育の個性化/自由化」政策に向けられた教育社会学の言説が、教育機会の階層間格差拡大という側面だけに焦点を当ててきた点で、一面的であると批判する。「個別化・個性化教育」の実践には、地域の公立学校で受け継がれてきた独自の理論が見出しうるとして、森はそれを「教育可能性に向けたテクノロジーの昂進」という視点から抉出するとともに、教育実践運動が、地域とのつな

    「個別化・個性化教育」という同じ名で呼ばれる2つの実践――「ガンダム」か「GM」か - もどきの部屋 education, sociology, history
    namawakari
    namawakari 2011/08/09
    これはとても重要な論点“「標準化」された「個別化・個性化」なんて…けれども、成田先生が言うところの真の「個別化・個性化教育」は、成田先生でないと持続不可能”
  • 肯定すること - もどきの部屋 education, sociology, history

    教育」とは権力の作動であるとかの用語系で語る言説に、もはや新たなインパクトなど皆無であろう。だがそれでもなお、「教育」をそのようなものとして認識しつづけることには実践的な意義もある。 「自己肯定感」とか「自己効力感」というのは、人が成長していく際に不可欠の「土台」であると、とくに前エントリで紹介したような学校の子どもたちを見ていると、痛感する。彼ら/彼女らは、無条件で自分を受け止め肯定してもらうという経験を安定して積み上げていないのではないかという印象を強くもつ。「基礎的信頼」というか。それを積み上げさせるだけの「余力」のある大人が周囲に分厚く存在しない。「親」も生存を確保するためだけですでに手一杯だし、ギリギリの生活が継続するというのは、ただそれだけで、精神を摩耗していくものでもある。 この場合の「余力」とは主に社会経済的なそれを意味しているのだが。 そういう背景のもとで「自己肯定感

    肯定すること - もどきの部屋 education, sociology, history
    namawakari
    namawakari 2011/02/26
    “「教育の機会」とはメンバー同士が相互に奪い合うゼロサムの資源ではなく、相対的な水準での序列を競い合うだけのゲームでもない。それは…社会全体の厚生を絶対的水準で向上させていくための元手である”