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ブックマーク / kmiura.hateblo.jp (6)

  • 表象と代議制 - kom’s log

    無珍先生は10までは数えられる。なおかつ58だけはゴジュウハチと知っている。いつも駐車する場所が58番だからである。で、隣に59という数字が壁にかかれていたので無珍先生に「あれいくつ?」と聞いたら、ちゃんとゴジュウキュウ、と答えた。「無珍先生は天才だ!」と誉めたら「無珍は天才じゃないよ、無珍は無珍だよ」不満そうな顔で反論した。なにかそれに類する話。 2012年6月29日金曜日夕方に日の首相官邸前で数万人規模の大飯原発再稼働反対デモが行われた*1。再稼働阻止という目標は達成されなかった。 前回述べたようにデモに参加することの第一の意味は個人的なものであるからして、かくなる人数の人間がおそらく人生初となる社会体験を行ったというのは、まあ、なんかそれだけで凄いことだ。加えて、表象と代表制という点において重大な意味がある。表象と代議制というと飛躍しているように思われるかも知れないが、英単語で考え

    表象と代議制 - kom’s log
    namawakari
    namawakari 2012/07/05
    “集団がその個々の意見のあり方において無限に分裂していることで連続体を構成している、とでもいおうか”ナイーブでも、ある問題について何万もの人が集まり、暴動にもならないというのは評価すべき。
  • 悪の社会 - kom’s log

    要は「いまの社会は悪の社会だ」という認定をしている。 http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081223/1230004277 社会というとどのスケールの社会を指しているのかにもよると思うのだけど、この結論を眺めたときにすぐにオウム真理教のことを思い出した。オウム真理教は日国家に対してハルマゲドンを設定した。このことから察するに「日社会」を「悪」とみなして問題設定をおこなった。これは私からみるととても極端で、社会を批判する上での間のステップをいきなり踏み越えている。 一方、目下のfuku33氏にとっての問題設定はトラブルシューティング的な内容なのだろうな、と想像する。システムの駆動に不良が生じており、その不良には欠陥があるのだからそれを修繕してシステムを復帰すべし、というような問題。あるいはシステムの漸次的改善。などとこのところの記事をいくつか読んでいて思った。

    悪の社会 - kom’s log
  • 2008-11-26

    nitarさんによる聴講メモ、東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)より抜粋。斎藤純一さんの『公共性』を引用しながらの講義。 次のページに、世界喪失とは生命の配慮であるとかそういうことが書いてある P48 つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、 厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、万人にとって同一である「生命の配慮」なのである。 P49 共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている 共通の世界について考えるのは、無限に続く議論空間 常に何かの異議申し立てが可能 別の見方を全部許容できる空間 僕はブログでよく叩かれている 雑誌をあまり読まないのでブログで批判されないと気付かない 『リアルのゆくえ』 南京大虐殺について僕はあると思っている しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能 いく

    2008-11-26
    namawakari
    namawakari 2008/11/27
    「全ては解釈ゲーム」なんてあまりにも通俗的なデリダ解釈じゃないかなあと思う。高橋哲哉が書いた入門書ぐらいしか読んだことないけど。
  • ボクタチの闘争 - kom’s log

    「同じ人間だろ」は断固否定しなくてはならない。同じ人間ではない、という基的な態度をとるべきなのである。 同じではないから、対話が必要なのであり、理解できる部分とできない部分を見極め、合意を形成し、ボトムラインの線引きを行う。ここからここまでは合意に達しましたね、ということで。同じ人間はそもそもありえない。同じ、ということはありえないと絶望しつつも合意が形成できることに僥倖を感じつつそこに社会関係がうまれる。 たとえばこのあたりにみられるように大騒ぎしている某府知事。バカだ、と一蹴すればよい話なのだが、そういっていられるのは実は今日明日の話であって、今後15年ぐらいのスパンで考えれば一蹴するわけにもいかぬ症状である。この人間が考えているのは競争だ。しかもその頭にあるのは、自分を競争という闘争の場から一歩引いて競争とはなにか、競争はこの場面においてあるべきか、といった思想ではない。人がたと

    ボクタチの闘争 - kom’s log
  • ベタがベタでなくなったとき - kom’s log

    紆余曲折して結局いまや再び「科学者の職業は真理の追究である」って言ってもいいんじゃないか、とわたしは思っている。「真理の追究」なんてこというと「まさか」という時代もありました。「科学者の職業は真理の追究である」って言うのってホントつらいというか恥ずかしいというか、アホですかバカですか、と穴に入りたくなるような気分になるけれど。 近代の文脈が見失われたらそもそも議論ってのは成り立たない。「まさか」は退行して「証拠見せろ」になるわけである。こうした状況はもう、あきれるほどあちらこちらで顕在化している。結局「真理の追究」、ベタがベタではなくなったので、普通に主張すべき内容になってしまったのである。研究の結果、かくかくしかじかなる結果でございました、と述べたときに「証拠見せろ」といわれてさんざん説明して「長すぎる、三行でわかるように」とかいわれたら、「大学で勉強しなおしてください」とでもしかいえな

    ベタがベタでなくなったとき - kom’s log
  • 秋の気配 - kom’s log

    あちらこちらで沸騰する議論などを眺めて、あー、ドンパチすごいなあ、派手にやってますなあ、などと思いつつ経過なぞを少し読んだりして、これはあきらかにこちらのほうがもっともらしい、あるいは、議論になっていませんね、などと勝手に判断させていただき、また別の議論などを眺める。そうこうするネットにおける経験はずいぶん長いことになるなあ、と思うのだが、きわめて単純に分類すると (1)ほぼ対等な知識・頭脳を持つ人間が互いに議論を行っている。 (2)明らかに知識・頭脳に差のある人間が互いに議論を行っている。 (1)はともかく。(2)の場合、あっという間に結論がでそうなものであるが、殴り合いやリアルでの議論と違ってなにしろいくらでも書ける文字である。ひどいときには差があまりにあるために結論に負けている側がなぜ負けているのか理解できないという恐るべき状況になっている議論なぞもある。かくなる八方塞的状況において

    秋の気配 - kom’s log
    namawakari
    namawakari 2008/09/11
    「ネット上の土俵というのは土俵際が存在しないために延々に拡散しつづける」そして本筋が忘れられる。/ズラし続けるといつしか味方が現れるのもネットの特徴かな。
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