辺見庸による渾身のチェット・ベイカー論「甘美な極悪、愛なき神性」の中の言葉。 ああ、人はここまで堕ちることができるのか。にもかかわらず、いや、だからこそ、ここまで深くうたえるのか……。 (辺見庸『美と破局』毎日新聞社、2009年、18頁、asin:4620318000) 藤原新也にとってインドの旅は、世界を風景化、光景化してしまう文明の傲慢な視点を壊す働きをした。彼は、風景や光景、景色をそういうものとして成り立たせる、すでに疎外され虚勢され乾涸びた精神が、風景以前の荒々しくも美しい自然、大地と風、花と蝶に急速に接近して行き、そこで、そのなかで、大地そのもの、風そのもの、花や蝶そのものに「成る」境域に触れる。 彼らの肉体は、風景という形式の中に組み込まれた小さな立木のように、風が吹けば、その風の吹くように、ふところを開けて通してやるのであって、ことさら風をさえぎるわけではない。風の吹く間、彼