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ブックマーク / ameblo.jp/mothra-flight (10)

  • 『戊辰、維新はわれらが祖父の時代:東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(岩波文庫)』

    1928=昭和3年に『東京日日新聞』で連載されたもの。維新前後を生きてきた人物たちの回想を編集した一編である。あわせて西南戦争前後の回顧録である「五十年前」(1926=大正15年連載)と、主として新撰組についての証言を集めた「維新前後」も収められている。 乱歩だったか、昭和前半期くらいは明治時代のなどいくらでもあったと書いているが、書を読んで気付かされるのは、同様に1868年における革命を経験をした人間がまだまだ存在したという事実である。明治、大正、昭和と区切ってしまうと各時代がずいぶんと違ったもののように思えるが、年数だけを見ればたかだか60年。ちょうどいま、われわれの曽祖父、祖父が敗戦前後を回想するようなものだろう。 敗戦前後については、それなりに市井のひとびとの証言が色々と出回っているのだが、さすがに明治維新前後となるとなかなかそういったものも見当たらない。正確にいえば口語体の東

    『戊辰、維新はわれらが祖父の時代:東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(岩波文庫)』
  • 『ヘニング・マンケル『リガの犬たち』(創元推理文庫)』

    リガの犬たち (創元推理文庫) スウェーデン警察小説というより、もはや世界的なそれとして評価されるクルト・ヴァランダー刑事シリーズの第二作目。原著初版1992年。 前作の影を引きずるところもあるが、書から読み始めても問題はない。 それよりもスウェーデン近辺の地図を見ておくと、書の魅力が増すことまちがいなしなので、グーグルマップあたりで一手間かけて、バルト三国との距離を確認しておきたい。 何しろ書の最大の魅力は、ヴァランダーがスウェーデンの田舎町イースタから出て、アウェイで孤独な戦いを強いられる、そのホームとの距離感、緊張感にあるからだ。 スウェーデン南部の海岸に、ゴムボートが漂着する。中には高級スーツを見まとった男性が二人、抱きあうように死んでいた。指先は万力で潰され、全身に火傷痕。明らかに拷問の犠牲者であった。 身元調査の結果、ラトビアの犯罪者と判明。急遽、ラトビア警察から捜査官が

    『ヘニング・マンケル『リガの犬たち』(創元推理文庫)』
  • 『スティーヴィー・ワンダーとロボットがコルトレーンの「ジャイアントステップ」を』

    スティーヴィーがジャズやるのは知ってたけど、コルトレーンははじめて見たぞ。 それよりもすごいのが、ロボットに高速で吹かせた'Giant Steps'。情念が空っぽで、当に曲をなぞっているだけ。かくジャズの対極的演奏はまずないだろう。衝撃的である。 ちなみに家。

    『スティーヴィー・ワンダーとロボットがコルトレーンの「ジャイアントステップ」を』
  • 『『被差別部落一千年史』:高橋貞樹著、沖浦和光校訂。有産部落民と無産部落民について』

    高橋貞樹『被差別部落一千年史』(岩波文庫) 初版1924年、マルクス主義の立場から書かれた部落問題の古典。第一編で古代から江戸までの被差別の実相を明らかにし、残りの半分を用いて明治以降の現代史を論じる。 前半部に関してはかなり専門的であり、法制史の知識をふんだんに要求されるため、第二編からはじめるのがよい。一読すればわかるが、高橋の力の入り方、熱気もさすが同時代を扱ったものだけに第二編のほうが上である。 さて書の基的な視座は、被差別が経済的問題でもあること、差別撤廃は無産部落民自らが行わねばならないという2点である。 木下真弘(木下順二の親族)は『維新旧幕比較論』において、明治4年=1871年の解放令により部落に独占されてきた職種が「解放」されたと差別を逆手にとったような賞賛をしているが、皮革業などに非部落系資が進出し部落を窮乏させるなどかつての特権が「国民」編成という「解放」の下に

    『『被差別部落一千年史』:高橋貞樹著、沖浦和光校訂。有産部落民と無産部落民について』
  • 『Zbigniew Namyslowski,Joachim Kuhn,Live at Kosmos』

    Zbigniew Namyslowski,Joachim Kuehn Live at Kosmos, Berlin 世にはすごい音源が眠っているもので、最近とみに注目を集めるようになってきたポーランドジャズの至宝、ナミスウォフスキのこのライブアルバムなど、約半世紀前のものとは思えないほどの瑞々しさ。 やはりweb上での数少ないコメントでも指摘されているように、数々のスタンダードのリフをヨアヒムが乱れ撃つなか、フリーキーでありながらモードぎりぎりのところで踏みとどまるナミスウォフスキのコルトレーンの感性及び奏法とブッカー・アーヴィンのリズム感、音程をないまぜにしたがごとき2枚目がすばらしい。おそらくクラシック出身であろうヨアヒムのどこか板橋文夫を想起させる強力かつ硬質なピアノもいうまでもなくよい。特に‘Piatawka’。ナミスウォフスキのソロで転調するのだが、その際のヨアヒムの入りとバッキ

    『Zbigniew Namyslowski,Joachim Kuhn,Live at Kosmos』
    namgen
    namgen 2009/07/14
  • 『アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78, Not A Through Street』

    ノット・ア・スルー・ストリート~アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78 酸いも甘いも何とやら、それまでの至高の音色を枯らし、よりアグレッシヴに攻めまくる後期アート・ペッパーの最高傑作。去年1980年のパリとロンドンでの未発表ライブが発売されたが、同メンバーでの作のほうが上。というか、これはヴィレッジ・ヴァンガードを越えているかもしれない。 ピアノのレヴィエフが当に素晴らしい。まことに申し訳ないが、レヴィエフはジョージ・ケイブルズを完全に凌駕している。その才気と美しさ、激しさはコルトレーンを消化した後期ペッパーにぴったりである。 リズム・セクションも何ていえばいいんだろう、とにかくすごいんだ。ペッパーがえらく気に入っていたというのも納得できる。特にマグヌソンのベースの鳴りはただ事ではない。 それにこのライブは観客の温かさ、興奮がもろに伝わってくる。いうまでもなくライブでの観客から

    『アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78, Not A Through Street』
    namgen
    namgen 2009/05/28
  • 『果たして爆弾三勇士は天皇陛下万歳と叫んだのか(上野 英信『天皇陛下万歳 爆弾三勇士序説』)』

    上野 英信 『天皇陛下万歳―爆弾三勇士序説』(筑摩書房 1972) 唐突に一の電話が作者のもとにかかってくるところから書ははじまる。上野が爆弾三勇士について調査を進めていると聞いた肉親が、それを拒絶するためにかけてきたのであった。なぜ彼女は三勇士について触れられたくないのか。三勇士といえばとりあえずは「軍神」である。それを顕彰までいかずとも、調査によってその実像を明らかにすることが、かくも激しい否定の感情を肉親に喚起するとは。これにより、自分が三勇士について無知であることを知らされる。そして書を読む進めるにつれ、三勇士という「神話」の一端を垣間見ることができる。 爆弾三勇士とはいうまでもない。上海事変のさなか、蒋介石軍が築いた鉄条網を爆破せんと江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵が突入し、自らも爆死したことが喧伝され構成された神話である。いわば彼らは「『三勇士』にさせられた」(歩兵第

    『果たして爆弾三勇士は天皇陛下万歳と叫んだのか(上野 英信『天皇陛下万歳 爆弾三勇士序説』)』
  • 『中村 光夫『時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋)』

    中村 光夫 『時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋) 「あるものを愛しつづけるのは、それが一生のこととなると、なかなかむづかしいので、文学の世界がどれほど広大であっても、これを養分として精神を生き生き保つのは、若いころ思っていたほど簡単なことではありません」 中村光夫がかくいってのけることに驚愕しつつ、続きを読んでみる。 「それを気で心がけている者のひとりとして、この小著が僕と同じくらいな年齢の人になにか役立てばと思います。 現代で一番切実に文学を要求するのは、──文でもふれた通り──人生から一歩退く時期にさしかかった人達と思われるからです」 59歳の中村光夫が書いているのは、いうまでもなく「文学の世界」から「精神を生き生き保つ」「養分」を「気」で得ようとすることである。いいかえれば、「気」でその世界を生きようとすることである。 かつてジャンボ鶴田が全日プロレス入団の記者会見に

    『中村 光夫『時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋)』
  • 『古在 由重, 丸山 真男『一哲学徒の苦難の道―丸山真男対話篇 1』(岩波現代文庫)』

    「丸山眞男対話篇」の一冊として出版されたものだが、もちろん古在こそが書の中心である。戦後にもさまざまな「啓蒙」活動を行っていた古在だが、やはりその生涯でもっとも劇的なのは戦前の唯物論研究会に関係していた頃だろう。 書で読むと古在の思想的来歴は、実のところ意外にもさほどマルクス主義へと直結するようなものではなく、あくまで新カント派特にマールブルグ学派を中心とした「科学」としての哲学に由来しているといえ、それが唯研におけるろくでもないイデオロギー抗争から一線を画していたところにつながるように思える。党派性云々よりも、「科学」的な態度もしくは「常識」的なそれといいかえてもいいかもしれないが、核にすべきものがあったということだろう。これは『唯物論研究』あたりをひっくり返してもらえばすぐにわかるが、唯研のマルクス主義者連のなかでは、かなり異色である。いうなれば健全なのである。そして健全であるがゆ

    『古在 由重, 丸山 真男『一哲学徒の苦難の道―丸山真男対話篇 1』(岩波現代文庫)』
  • 『養老 孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫)』

    養老 孟司 『唯脳論』(ちくま学芸文庫) このところ、ものすごい勢いで作品を量産している養老だが、それらの根底にある基的な考え方は、書ですでに与えられているといってよい。 もともと『現代思想』に連載されたものだけに、新書で彼に親しんだひとにはきついところもあるかもしれないが、彼の解剖学から導かれた「唯脳論」による、様々な思想の読解は興味あるものにとってはたまらないだろう。 では、その核となる「唯脳論」とはなんだろうか。 「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場」 である。これはヒトは脳の限界内でのみ活動するし、ヒトの活動は脳の限界内に止まる、という観点を下敷きにしている。養老自身の言葉を借りれば 「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」 となる。ここから心身問題や意識、言語の問題を縦横無尽に論じてゆくのが書である。 わかりやすい例として

    『養老 孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫)』
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