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freezingに関するnamgenのブックマーク (35)

  • 坂のある非風景 誘惑的なあまりに誘惑的な

    誘惑的なあまりに誘惑的な書き方があるということは、きっと誘惑される人がいるのだろうし、誘惑に抵抗する人がそこに佇んでいるのだろう。誘われてもそこに場所はないのだ。場所がないということがきっと私たちを誘惑し、その誘惑に抵抗させる。 通路をまっすぐ歩くしかない高級百貨店の反対側には、人をよけながら斜めに歩く安売りスーパーがあって、その先には暗い夜ばかりが広がってときに強い風が吹いたが、何も起こらなかった。強い風が吹いているのに何も起こらないことを信じることができるだろうか。通路は斜めに歩くほうがいいと私は思う。 花は見ない。桜の花の話をしてくれる知人がいて私は幸福なのだろうが、私は、ラジオを聴かないように花を見ない。ラジオからは音楽が流れてくるからだし、花からは……花からはいったい何が流れてくるだろうか。 4月1日のテレビドラマ『SPEC』の話をちょっとだけすると、瀬文のために感覚を失った当麻

  • 約束のない再会の雨が降る おだやかな死後を生きている

  • 坂のある非風景 どんな雨の日の雨傘も雨にうたれる

    かつて「傘を選ぶようになってから雨が好きになりました」と言ったひとが、雨が降ると予報された日に傘を忘れてきて、それじゃあ好きな雨と出会えないだろう帰り道に偶然同じ赤信号を待った。同じ赤信号を待つことにいったいどういう結末があるのかというとまったく何もないのだし、もしも私が傘を持っていたら、そのひとを信号の向こうまでその傘に入れただろうが、同じひとつのビニール傘で歩くことにどんな結末があるのかというと、横断歩道の向こう岸で左右に別れるいがいに何の結末もなかった。ただ欠如する結末に救われよ。それが雨の日の雨の音が語りかけることばだと知るしかない。 雨に日に買った雨傘を開くのはその日の雨に向かってだった。傘立てには傘が氾濫している。 あきらめのように海がひろがって 全ての橋が落ちれば島になるのだ とそのひとは言っていた 島の物語もまた、すでに終わってしまったのにまだ始まってさえいないもののひとつ

  • 坂のある非風景 愛のエピソード

    梶井基次郎のウィキペディアに以下のエピソードが紹介されている。 汽車内で同志社女専の女学生に一目惚れし、ブラウニングやキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日『読んでくれましたか』と問うと『知りませんっ』と拒絶をされた事がある。 『知りませんっ』というセリフの最後についている「っ」がおおいに気になる。ブラウニングやキーツが似合うと見立てられた少女の自尊心からやってくるかたくなな憤りが、こんな「っ」で表現されていて、その口調をすぐそばで直接聞いていただれかが書き残したものだと思われた。そしてもちろんこれはウソではない。たんなる誇張である。 すぐそばにいたのが大宅壮一だったかどうか知らない。いっしょに汽車で通ったとされる大宅壮一のウィキペディアにはさらりと「大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った」とだけ書かれているが、文学や恋愛を語り合う仲良しといったおそるべき平凡さにおどろいてみ

    namgen
    namgen 2011/06/08
    うーん、おもしろい。
  • 岬の先をゆく孤立がことばの遠さとなっている - M’s Library

    namgen
    namgen 2011/02/04
    反射鏡を手に、岬の延長をゆく船を見送れば/眠れる夜の夢をみる猫が鳴いている/反射鏡を手にすれば死後を泣ける/鋏を手にすれば死後を泣ける
  • 約束のない再会の雨が降る

    母がいっしょにべようといって鯛の刺身を冷蔵庫から取り出す。きっとスーパーでこの刺身を見たときに、わたしにべさせようと思って手をのばしたのだろう、自分がべたいのではなく、と思った。ほんとうは自分がべたいだけで、それをだれかにべさせたいという口実で買ったといった人間的な解釈がほしかったのに、ここには動物的な、子どもに餌を与えるといった純粋なメカニズムに近いものが機能しただけだった。いざべ始めると(案の定)母は、自分は一切れでいいと言い出す。わたしは満腹だったのである。 ここ二日ほど母の作った赤飯をべている。母はむかしから赤飯が好きだったのではないかと突然気づく。むかしというのは、もしかしたら子供の頃からということで、子供の頃から変わらずに持ち続けるものはひとつの奇蹟というほかなく、そこには奇蹟的な出会いがあったからにほかならない。たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと

    namgen
    namgen 2011/02/04
    『たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと、時代の哀しさに行き着く。』
  • 坂のある非風景 カッサンドラーの予言

    カッサンドラーはトロイア王、プリアモスの娘である。アポローンはカッサンドラーの美貌に懸想し、求愛する。自分の愛を受け入れれば「百発百中の予言能力」を授けるとカッサンドラーを誘惑する。カッサンドラーはそれを受け入れ「予言能力」を手に入れるが、その瞬間「アポローンに弄ばれたあげく、捨てられる自分の運命」を予言してしまう。 愛を受け容れる条件はその愛が愛ではないことを知ることだった。ついこれは残酷な愛の不可能を語っているのだろうと読んでしまうわけだが、待てよ、誰だって受け容れた後でそれが嘘だと気づく、そうじゃないのか。いつでも予言は疑いだけを真実に変え、知りたくないことだけを知らしめる。 避けることのできない運命とは、極端な言い方をすると過ぎ去ってしまったことである。過ぎ去ったのに気づかなかったことが遅れてやってくる。犯してもいない罪に罰がくだされるときは、知らない場所で知らない罪を犯していたこ

    namgen
    namgen 2011/01/28
    「誰も信じない」ためにこそ予言があり、「信じられる」運命がある。
  • 坂のある非風景 生としての死、死としての生

    ◇ 私が強く感じるのは、とりわけその人が愛されている場合(その場合に限られるわけではありませんが)、他者の死が告げているのは一つの不在、消失、それぞれの生の終わり、すなわち、(常にただ一つである)世界がある生者に立ち現れる可能性が終わりを迎えてしまった、ということではない、ということです。死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的な終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです。それはそのたびごとに、ただ一つの――それゆえ、かけがえのない、果てしない――総体である世界の終焉を宣告しているのです。 ■「南無の日記」に、知人の突然の死が報じられている。出会う前から出会っていたふたりは、別れるまえに、いや、出会う前に引き裂かれてしまった。別れをやりなおす(葬儀という儀式)前に、その別れを契機に、出会いをやり直さなければならない関係をそこにみる。 ■死は死に接続する。「なぜ私は今も書いているの

  • 坂 - M’s Library

  • 坂のある非風景 夏なればこそ、かすんだ視界でよしとできるか

    もう内臓がボロボロなんだと語る中上健次に、年に千人程度無頭児というのが生まれる、それに中上の脳を移植して再生すればいい、といった会話がなされ、発禁処分になった対談集があったらしいが、現在、誰かは、たえず中上の脳を受け継いだ無脳児ではないかと思っている。でも彼は小説を書いていない。なぜか。 望んだわけでもない生を生きることの意味が、ひとにとってどれほど苦痛に満ちた核となりうるのか。といった真面目そうな問いも問うてみたい。耐えるという抵抗しかなかった場所で、それ以上の抵抗があることを中上健次はみせたし、その「それ以上の抵抗」だけが抵抗の終焉を含んでいた。 どれほど死んでも殺され続ける世界だけが私たちを生かす。それが時には書く理由であり書かない理由だったが、もっとも評価されていない彼の発言「吉隆明全著作集15巻を全部読んだ」はふかく評価されるべきだろう。場所の持つ宿命的な杭に打ち抜かれた精神を

  • 坂のある非風景 書かれない詩が書かれている詩を凌駕する

    微動だにしないことで消耗を強いられることがある。「停滞」は無気力、無関心な傍観者が演じるんじゃなくて、積極的な消耗戦の中にある。というわけで目的をもって作品を書きつづけるという消耗が「停滞」を意味してしまうという話だ。何もしない停滞が救われるのはその停滞について否が応でも認識させられるからで、いつでも問題は、何もしない停滞の苦痛からみごとに逃避しおおせたあげく手に入れる快楽的な停滞の方だった。 停滞は充実の中にしかない。充実した創作活動にある停滞をいかにして認識するか。その認識が作品を破綻させる、その破綻にいかにして耐えてゆくかといった場所だけがあたらしい詩的形式を生む場所のはずだった。すでに新しい詩的形式をうしなって半世紀になろうとしている。 その知人の叔母にあたる方は被爆者だったが、昨年亡くなったその葬式に行くことができなかったと語った。叔母はエホバの証人だった。エホバの証人は葬儀を行

  • 坂のある非風景 ふたつの巨星

    ◇「文士の生魑魅(ぶんしのいきすだま)」車谷長吉 新潮社 昭和四十年代の末、私はまだ二十代だった。その頃、東京新宿の文壇バーで文壇雀たちに、「いずれ中上健次・車谷長吉時代が来るだろう。」と言われた一時期があった。 ■その時、その文壇バーで、車谷と中上は二度出会っている。しかし時代は中上健次を選択した。「岬」で芥川賞をとると、中上は次々に誰にも書けない文学世界を切り拓いていった。その頃、車谷は姫路で旅館の下足番をしていた。 ■車谷が決定的に敗北を認めたという中上健次の作品は、昭和50年に発表された「穢土」という短編小説で、これはのちのち講談社文庫の『化粧』にはいった。実をいうとぼくの学生時代、新刊だった「化粧」を読み、この「穢土」についてしきりに語る後輩がいた。ちょっと読み返してみよう。 ■(絶望的な気分に陥った…) ■車谷はこの小説を読んで、中上健次が踏み込んだ地獄が瞬時にわかったのである

  • 坂のある非風景 路地に咲き、路地に散る

    隆明を介して出会う吉隆明 JAP on the blog(09/06) その亡霊、その模倣 miya blog(08/22) 中上健次は語る 南無の日記(08/11) ブランショを月明かりにして歩く 愛と苦悩の日記(01/21) 作品は過大評価を求めつづける 青藍山研鑽通信(12/01) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない M’s Library(11/09) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない 僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない(11/07) 停滞すべき現在さえ 斜向かいの巣箱(10/22) 東京旅行記 #4 azul sangriento(09/23) 東京旅行記 #1 南無の日記(09/21)

  • 坂のある非風景 中上健次は語る

    この一連の記事は、ブログ「セックスなんてくそくらえ」における企画≪中上健次15周忌「咲きほこれ夏芙蓉」≫のために、パソコンもワープロもない時代に、ノートに書き綴ったものを取捨選択し、打ち直した。「全発言」という分厚い中上の対談集は数冊出ていて、こののち村上龍、大江健三郎などとの対談もあったと記憶している。実は発禁処分をうけたものもある。 もっとも初期の対談で、企画はひどいものが多いが、20代の中上健次の発言はそれをかるく凌駕しているように見えた。これらの文を書いた私もまた20代だった。死んでいた私のノートに初めて陽の光があたるきっかけを与えてくれたnoon75氏に深く感謝したい。 「戦後文学の流れから」 秋山駿/田久保英夫/上総英郎/中上健次 「闇の力-ディオニソスを求めて」 小川国夫/中上健次 「痩せたソクラテスより太った豚になれ」 三上寛/中上健次 「剥き出しにした生きざまを書く」 佐

  • 梅雨の岸辺か - M’s Library

  • 約束のない再会の雨が降る 雨と風と日曜日

  • 約束のない再会の雨が降る 引越し

  • 坂のある非風景 千の非望

    千の非望は忘れ去られるべきだった。記憶は時間に蹂躙され苦汁を垂れ流している。時間などといつ付き合いはじめたか覚えてもいないが、沈みきってしまった、沈みきっていない水浸しの千の非望をもはやどこにも探すべきではない。 どこで初めて会ったか、どこが最後だったか、どちらもない線路だった。先々週は体調を崩し何度も駅を乗り過ごしたが、わかったのは線路が続いていることだった、どこまでも。始めもなく終りもないのにそれはどこかで始まりどこかで終わる。永遠の過去に始まり永遠の未来で終わることも一区切りにすぎないということだろうか。 しかし井上さんとの出会いがなければ今頃私はどうなっていただろう。もしかしたら脳軟化症患者として幸せな日々を送っているかもしれない。とにかく今も修行は続いているのだ。えっ、続いてるの!?続いているのだ。 太田氏の記述とは異なるが、私はものごとをまるで考えないタイプだった。ただ答えを待

  • 坂のある非風景 生まれたからには、何かのフリをしなければなりませんよ。

    詩集『転生炸裂馬鹿地獄、割れて砕けて裂けて散るかも』(七月堂)はどこにもない広場だった。この広場は、動物化される世界の住人と擬人化されるや犬が簡単に出会い、すれ違っていく場所だ。動物化される人物は寓意の中に住み、擬人化される動物は子供の中に住んでいる。そして寓話が童話だった時代があった。そして場所があった。イソップの頭の中はそんな場所のひとつだった。イソップなんて実在しないと、しつこくくりかえして言ってほしい。実在しない人物の頭の中にだけあったものが阿賀猥氏の頭の中へと引き継がれ、生き延びてきたのである。 突然こんなところでこんなことを言うのは、不謹慎であることは、知っている。 だが、言っておきたい。 私は以前、豚国にいて、豚男と暮らしていた。 にもかかわらず、豚ではなかった。 私はそういう怖るべきイキモノである。 しかし寓意がおもしろすぎて、せっかくの破壊の衝動がかすんでしまう場面も多

  • 渓谷0年: 幻の雪