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ブックマーク / yonezawakoji.com (4)

  • 井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 

    井上と英語-なぜ彼は英語教育を貫いたのか前編でも述べたように、戦後の井上は公の場に出ることもなく、ここ長井で海軍の提督とは思えないほどの貧困生活を送りました。 しかし、井上が「すごい人」というのを間接的に耳にした、もしくは人が醸し出すオーラで察した地元住民が、

    井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 
    navix
    navix 2023/07/07
    「昭和15年(1940)、文部省からの「お願い」により「大阪女学院」に改名させられた」“一昔前の大阪女学院のHPの沿革には「強制でした」とはっきり書かれていました”。「墓の前には帝国海軍の紋が入った木の板が」
  • 井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは

    戦後-井上と防衛大学校兵学校校長を退任後、井上は海軍次官として東京へ行くことになりましたが、その話については、記事では書きません。 周知のとおり、日戦争に敗れ戦後のスタートとなります。 井上は、GHQにより海軍が消滅する寸前に予備役(軍隊で言うクビ)となり軍服を脱ぎ、胸の病で苦しんだいたの療養所として昭和初期に建てた別宅に引きこもります。場所は三浦半島の端にある長井という地区。そこが井上提督の終生の地となりました。 「日をこんな風にし、多くの若者を死なせてしまった責任を感じる」 口ではこう言うものの行動を伴わない旧軍人が多かった中、井上は戦後一貫公の場に出ることは一切なく、得意の語学力を活かし長井のこどもたちに英語を教え細々と暮らすこととなりました。英語を教えてもらった元生徒は異口同音に、英語以上に人としての生き方、人間教育を教わったと述べています。 しかし、月謝を取ることもほと

    井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは
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    navix 2023/07/07
    “「兵隊を作るんじゃないんです。ジェントルマンを作るのです」”。「ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える…ということです(筆者註:ノーブリス・オブリージュのこと)」
  • 井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは

    先月、潮が巷に香る街、横須賀へ行ってまいりました。 その旅の目的は、ある人物の故居を訪ねるもの。 横須賀は言わば軍都。旧帝国海軍による鎮守府開設から始まり、戦後も海上自衛隊はや米海軍の根拠地、そして防衛大学校や自衛隊の各種学校が集まる「軍の街」なのは現在も変わっていません。 そんな旧帝国海軍の中で、異彩を放った一人の軍人がいました。 その名は井上成美。 私の横須賀入りは、彼が晩年を過ごし、そこで亡くなった家を訪ねるもの。そこで

    井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは
    navix
    navix 2023/07/07
    “戦争は「終わる」ことを考えないといけないのと同時に、「終わった後」も考えないといけない。 井上は若い彼らに「戦後」を託し、「終わった後」のための人材教育を施そうとした”
  • 井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 

    井上成美記念館を訪ねる記念館への道のり井上記念館、彼が戦後に終生の地として選んだ長井という地区は、上の地図のとおり三浦半島の南端部にあります。アナログ地図ではかなり見つけにくいですが、現在では文明の利器Google mapで「井上成美」と検索すればすぐに見つかり、場所の特定は難しくありません。 しかし、言うは易く行うは難し。実際に行くとなるとこれがなかなか厄介なのです。実際に現場まで来てみると、現在でも交通不便な地なのに戦前にここまで来るのはかなり困難だったのではないかという疑問が沸いてきます。というか、よく「こんな場所」に別荘を建てたなと。 現在の地図を見ると、京急の三崎口駅が最寄り駅のように見えます。が、京急がここまで開通させたのは昭和50年(1975)。つまり井上がこの世を去った年なのです。 一瞬途方に暮れてしまいましたが、冷静になって調べてみると、長井地区にはかつてバスが通っており

    井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 
    navix
    navix 2023/07/07
    「兵学校73期の深田秀明が経営する会社に土地建物を無償譲渡し、井上には「管理人」として引き続き住んで」。「2011年3月の東日本大震災で邸宅が一部壊れてしまい、そのまま再開されることなく閉館」
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