井上と英語-なぜ彼は英語教育を貫いたのか前編でも述べたように、戦後の井上は公の場に出ることもなく、ここ長井で海軍の提督とは思えないほどの貧困生活を送りました。 しかし、井上が「すごい人」というのを間接的に耳にした、もしくは本人が醸し出すオーラで察した地元住民が、
戦後-井上と防衛大学校兵学校校長を退任後、井上は海軍次官として東京へ行くことになりましたが、その話については、本記事では書きません。 周知のとおり、日本は戦争に敗れ戦後のスタートとなります。 井上は、GHQにより海軍が消滅する寸前に予備役(軍隊で言うクビ)となり軍服を脱ぎ、胸の病で苦しんだいた妻の療養所として昭和初期に建てた別宅に引きこもります。場所は三浦半島の端にある長井という地区。そこが井上提督の終生の地となりました。 「日本をこんな風にし、多くの若者を死なせてしまった責任を感じる」 口ではこう言うものの行動を伴わない旧軍人が多かった中、井上は戦後一貫公の場に出ることは一切なく、得意の語学力を活かし長井のこどもたちに英語を教え細々と暮らすこととなりました。英語を教えてもらった元生徒は異口同音に、英語以上に人としての生き方、人間教育を教わったと述べています。 しかし、月謝を取ることもほと
井上成美記念館を訪ねる記念館への道のり井上記念館、彼が戦後に終生の地として選んだ長井という地区は、上の地図のとおり三浦半島の南端部にあります。アナログ地図ではかなり見つけにくいですが、現在では文明の利器Google mapで「井上成美」と検索すればすぐに見つかり、場所の特定は難しくありません。 しかし、言うは易く行うは難し。実際に行くとなるとこれがなかなか厄介なのです。実際に現場まで来てみると、現在でも交通不便な地なのに戦前にここまで来るのはかなり困難だったのではないかという疑問が沸いてきます。というか、よく「こんな場所」に別荘を建てたなと。 現在の地図を見ると、京急の三崎口駅が最寄り駅のように見えます。が、京急がここまで開通させたのは昭和50年(1975)。つまり井上がこの世を去った年なのです。 一瞬途方に暮れてしまいましたが、冷静になって調べてみると、長井地区にはかつてバスが通っており
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