信長公記を公開します。 大田牛一署の「信長公記」の町田本をデジタル化しました。 純粋なtext形式を目論んだが、表示できない文字が多く「文字鏡」によりJIS第1、第2水準に無い文字を表記しWordにて文章を作成の上PDF形式にしました。 誤字・脱字等がありましたらお知らせ下さい。早急に対応します。 PDFの文章をご覧いただく場合には、閲覧用ソフトが必要です。 Acrobat Reader等をお持ちでない方、または正しく表示されない方は、左のボタンをクリックし、手順に従い最新のソフトをダウンロードしてご覧ください。 信長公記 巻首 {天文三年~永禄十一年}(PDF形式 192KB) 信長公記 巻一 {永禄十一年}(PDF形式 64KB) 信長公記 巻二 {永禄十二年}(PDF形式 32KB) 信長公記 巻三 {元亀元年}(PDF形式 64KB)
江戸末期の旗本宮崎成身が、さまざまな資料や情報を記録しあるいは綴じ込んだ『視聴草』(全176冊)には、興味深い図版や美しい彩色図が多数含まれています。その一部をご紹介しましょう。文政5年(1822)、江戸で6歳(数え年 満年齢ならようやく五歳になったばかり)の幼女の死が話題になりました。幼女の名は露(つゆ)。因幡(いなば)鳥取藩の支藩の前藩主で、隠居して冠山と号していた池田定常の息女として生まれた露が、この年の11月27日に、疱瘡(天然痘)のため、その短い生涯を閉じたのでした。法名は浄観院玉露如泡童女。彼女の死が話題になった理由のひとつは、当代一流の文化人でもあった父親の池田冠山のもとに、友人知人の大名や学者たちから露の死を悼む和歌や詩文が1600点ももたらされたから。それにもまして、露の没後発見された彼女の遺書めいた手紙や和歌や句が父親によって実物そのままに木版刷りされ、人びとに配られた
祈年祭 春日祭 広瀬大忌祭 龍田風神祭 平野祭 久度古開 六月月次 大殿祭 御門祭 六月晦大祓 東文忌寸部献横刀時の呪 鎮火祭 道饗祭 大嘗祭 鎮御魂斎戸祭 伊勢大神宮 二月祈年・六月十二月月次祭 豊受宮 四月神衣祭 六月月次祭 九月神嘗祭 豊受宮同祭 同神嘗祭 斎内親王奉入時 遷奉大神宮祝詞 遷却祟神祭 遣唐使時奉幣 出雲国造神賀詞 中臣寿詞 これまた昭和時代の入力による資料で、大倉精神文化研究所の『神典』などをもとに、適宜送り仮名を補ったものと記憶してゐる。ふりがなはないので、初めて祝詞に接する人向きではない。記紀などの漢文の読下しとは異なり、新たな著作物である要素はないものと見て、ここに掲載した。もっとも団体著作物の『神典』は既に60年以上前のものである。 祝詞 凡そ祭祀の祝詞は、御殿・御門等の祭には、斎部氏祝詞まをし、以外の諸祭には、仲臣氏祝詞まをせ。 凡そ四時の諸祭に祝詞を云はざ
外様大名の伊達政宗が樹立し、以降は明治の廃藩置県まで代々伊達本家が統治した。伊達本家は、大広間詰国持大名。代々、徳川将軍家より松平姓を許され[3]、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)があった。 表高62万0056石5斗4升4合で、諸藩のうちで第3位[注 1]、実高は支藩の一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000人(江戸中期以降には約1万人)、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力(江戸中期以降は約3万5000人)を擁した。領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビやフカヒレは長崎俵物として外貨を稼いだ。 伊達政宗の肖像画 仙台藩が成立する以前の16世紀の中ごろ、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての領域は大崎家と葛西家が治めていた。また、宮城県中部は留守家や国分家、黒川家の領
本展では、本学附属図書館が所蔵しております貴重なコレクションの中 から、選 りすぐった幕末・明治期の古写真約200点を展示し、約100年前の近代日本形成期 の諸相を写 真に残された全国各地の風景・風俗・人物等を中心に”目で見る歴史”として紹介します。 これらは、わが国に最初に本格的写真技術をもたらし た、F. ベアトの作品十数点を始めとする我が国揺籃期の写真師の作品から、「横浜写真」の名で知られ る外国人観光客向けの土産物として作られた絢爛豪華な漆塗り蒔絵アルバムに至るまでの作品群を一堂に集め紹介するものであります。 わが国が本格的に海外に向けその門戸を開き、近代化 への第一歩を踏み出した時代をそのまま画像として捕らえたこれらの写真は、現代の私たちの目にも新鮮 なものとして映るものと存じます。
赤穂事件(あこうじけん)は江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。 事件は人形浄瑠璃・歌舞伎の仮名手本忠臣蔵を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの題材に取り上げられた。 歌川芳虎 作「義士四拾七人」 史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている[2]。一方で、「正保赤穂事件」[注釈 2]、「文久赤穂事件」[注釈 3]と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。 赤穂事件を扱った創作物については、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。 吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士の事を赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。 それ以外の立
連載 IT管理者のためのPCエンサイクロペディア -基礎から学ぶPCアーキテクチャ入門- 第7回 PCのエンジン「プロセッサ」の歴史(1)~i8088からIntel386までの道のり 1. IBM PCシリーズに採用された86系16bitプロセッサたち 元麻布春男 2002/08/17 パーソナル・コンピュータとマイクロプロセッサは非常に密接な関係にある。恐らくマイクロプロセッサという半導体製品が誕生しなければ、パーソナル・コンピュータという商品も生まれなかったに違いない。マイクロプロセッサが登場したからこそ、個人向けの汎用計算機というアイデアが形になったのである。また逆に、日本の歴史を振り返れば、マイクロプロセッサ(当時は「マイコン」と呼んでいたが)という半導体製品を売るために誕生した製品こそ、最初のパーソナル・コンピュータ「TK-80」であるということさえ可能だ。このように重要なパーツ
このサイトは、平成15年に公開した「蔵書印の世界」をリニューアルしたものです。内容は当時の記述に基づいています。従来のサイトは、国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP)でご覧いただけます。 蔵書印は、書物の所蔵を明らかにするために蔵書に捺した印影です。中国で早くに発生し、それが日本に伝わってきたとされています。しかし、日本最古の蔵書印は奈良時代にまで遡ることができますが、いつ、どのように伝わったかは明らかでありません。ともあれ、以来、江戸時代中期までは社寺や特権階層の者など、極めて限られた人々しか使用することはありませんでした。ところが書物が一般に流通するようになると、学者や文人の蔵書家が出現し、趣向を凝らした多種多様な蔵書印が考案され、用いられるようになりました。 蔵書印にはさまざまな形態があり、それらを使用した時代や機関の種類、個人であれば職業、身分などによってそれぞれ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く