アーティストに関するnegative-naiveのブックマーク (2)

  • CAMP:TALK:1203 「アートと公共性」  あるいはChim↑Pomについて- No Hedge!

    を聞きに行ってきた。「アートと公共性」というタイトルだったのだが、僕はアート方面はからきしなので、「公共性」の方にアクセントを置いたつもりで話を聞いてきました。 ……というのも半分当、半分冗談で、この場にいた大半の人がそうであったように、例の「ピカッ」事件の当事者である「Chim↑Pom」のリーダーが卯城氏が来るということで、半分は野次馬根性でした。 あと以下の文章で僕が使う「アート」というのは、このトークイベントのコンテクストからするとおそらく(言ってる人がおそらくというのも変だが、知識がないので)現代アートのことを指しているのだと思ってください。 純朴な「対話」への意志 http://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html 共同体と“開かれた”アート 〜アートと公共性の関係〜 第一夜:アートは、何とどうやって関わっていくのか <ゲスト>

    CAMP:TALK:1203 「アートと公共性」  あるいはChim↑Pomについて- No Hedge!
  • Pink floyd『The final cut』 - the deconstruKction of right

    別にこのタイトル作を直接論じるわけじゃないけど。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私はゼロアカ道場というのに参加し、「キャラ」化する批評家、そして2ちゃんねる上でパフォーマンスする批評家というキャラクター、をやってみていた。ゼロアカ道場自体は敗退したのだが、その動画を使った「キャラになる」というパフォーマンスは結構辛かった。ご覧になった方には見苦しい場面もあったのかもしれないが。 批評家で「キャラ」になるという事態は新しいのかもしれない。しかし、作家は、太宰とか、その気配は持っていたような気がする。「道化の華」とか、三島の『仮面の告白』とか、無頼派とか私小説家とか、生きていること自体がエンターテイメントと化してしまうという側面はあったと思う。これは池田雄一氏が小説トリッパー2008年秋号で「スペクタクルと文学」で、80年代の作家のスターシステムと、2003年度下半期の芥川賞以降の「純

    negative-naive
    negative-naive 2008/11/21
    この方面を、崩壊しない方向(あるいはより快適な方向)へと展開することは不可能ではない、と愚考する次第。メールさしあげました。ご多忙かとは思いますがご覧ください(私信)。
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