キャラに関するnegative-naiveのブックマーク (8)

  • K's blog Characters & Reviews : けいおん!

    2009年06月24日14:48 カテゴリreview けいおん! そろそろ改変期。春クールのアニメの多くが今夜あたりから最終回を迎えようとしている。この春クールのタイトルのなかで、良くも悪くももっとも反響を呼んだのはやはり「けいおん!」であろう。使用されている楽器がアマゾンで話題となり、ちょうど今日発表されたオリコンの最新ランキングでもそのキャラソンが2位と3位にランクインしているのだから、人気のほどがわかる。最近では、舞台と思しき京都の周辺を「聖地巡礼」するヲタもいるらしい。 「けいおん!」の舞台は女子高であり、廃部中心の軽音楽部に集まったメンバーが結成したガールズバンドを中心に物語が展開される。登場人物はみな御菓子や噂話の大好きなごく普通の女子高生ばかり。彼女らのゆるい日常をベースとした物語はごく他愛のないものだ。 この人気はどこに起因しているのか。「けいおん!」の原作は「まんがタイ

    negative-naive
    negative-naive 2009/06/24
    暮沢剛巳氏による「けいおん!」エントリ。「らき☆すた」やシャフトとの比較など。
  • CAMP:TALK:1203 「アートと公共性」  あるいはChim↑Pomについて- No Hedge!

    を聞きに行ってきた。「アートと公共性」というタイトルだったのだが、僕はアート方面はからきしなので、「公共性」の方にアクセントを置いたつもりで話を聞いてきました。 ……というのも半分当、半分冗談で、この場にいた大半の人がそうであったように、例の「ピカッ」事件の当事者である「Chim↑Pom」のリーダーが卯城氏が来るということで、半分は野次馬根性でした。 あと以下の文章で僕が使う「アート」というのは、このトークイベントのコンテクストからするとおそらく(言ってる人がおそらくというのも変だが、知識がないので)現代アートのことを指しているのだと思ってください。 純朴な「対話」への意志 http://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html 共同体と“開かれた”アート 〜アートと公共性の関係〜 第一夜:アートは、何とどうやって関わっていくのか <ゲスト>

    CAMP:TALK:1203 「アートと公共性」  あるいはChim↑Pomについて- No Hedge!
  • おいッ!パーティーやんぞ! - DIG@BOOKOFF

    「おいッ!パーティーやんぞ!」 2009/02/06(Fri) 21:00〜5:00 @六木bullet's \1500(1D) DJ> tofubeats tomad(Maltine Records) tofumad imdkm DJ TECHNORCH(999 Recordings) Wild Party (赤線企画) LIVE> アシッドホワイトハウス 三毛ホームレス(Maltine Records) パジャマパーティズ CDR ☆tofubeats超限定CDRプレゼント特別企画 1.ブログ、mixi、twitterにこのイベントの事を告知しよう! 2.告知したURLと自分のIDもしくはmixi名をに送ろう! 3.先着10名様にtofubeats超限定CDRプレゼントの権利が!権利を得た人には返信があります! 4.パーティーに来たらtofubeatsもしくはtomadに自分のID

    おいッ!パーティーやんぞ! - DIG@BOOKOFF
  • 青幻舎 SEIGENSHA Art Publishing, Inc.

    2024.04.10 展覧会・イベント 鈴木康広展「ただ今発見しています。」 2024.7.20-9.1 | 二子玉川ライズ 2024.04.11 展覧会・イベント 「三島喜美代―未来への記憶」 2024.5.19-7.7 | 練馬区立美術館 2024.03.22 展覧会・イベント 「丹下健三と隈研吾展 東京大会の建築家たち」 2024.5.2-6.29 | パリ日文化会館(フランス) 2024.04.12 展覧会・イベント 『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日 2024.4.27-6.30 | 三重県立美術館 2024.03.08 展覧会・イベント 「隙あらば 町田尚子絵原画展」 2024.4.24-5.6 | 大丸ミュージアム〈京都〉 2024.04.08 展覧会・イベント 「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」 2024.4.20-9.1 | 菊池寛実記念

    青幻舎 SEIGENSHA Art Publishing, Inc.
    negative-naive
    negative-naive 2008/12/02
    100点余の写真に加え、「着倒れ人」たちの心の断片を綴った それぞれのテキストも一層興味をそそる。 雑誌、「流行通信」で8年間の長きに亘り連載された待望の書籍化!
  • <普遍語>のテロ、<現地語>のテロ - 仮想算術の世界

    水村美苗さんの『日語が亡びるとき』は、<普遍語>と<現地語>に、近代文学と結びついた<国語>が対置されるという構図になっています。簡単に言うと、<普遍語>が万人に通じる普遍的な知の世界だとすると、<現地語>というのは日常的なおしゃべりの世界です。たとえば、かつてならラテン語が、いまなら英語が<普遍語>として考えられる。知を一極的に集中し管理することのできる言語がひとつ決まっていて、あとはその下層で<現地語>のおしゃべりが生まれては消えていく。そういう二極化が、現代のグローバルな情報環境の下で進んでいる。それが水村さんの見立てです。いわば、近代以前の中世的な世界になっているわけです。そこでは、日語は知を担う言葉というよりも、おしゃべりの言葉としてのみ生き残ることになる。 そして、水村さんの構図では、来その両者の中間的な存在として<国語>がある。<国語>とは、知的でありながら日常的な言

    negative-naive
    negative-naive 2008/11/29
    <普遍語>と<現地語>のあいだの翻訳について。うわー、これは納得だ。でもまだ問題の水村本読んでない。小説の方は好きで読んでるけど。
  • パターンで会話する - 仮想算術の世界

    更新があいてしまいました。ここのところは原稿書いたり、東方を久々にいくつかやり直したり、温泉行ったりしていたのですが、どうも生産性が落ちているのは否めないので、何とかてこ入れしたいものです。というわけで、今日は東方絡みで二、三思うことを。 東方はシューティング+偽史ということで、80年代的なテイストを感じてちょっと敬遠していたのですが(僕の世代のメジャーなゲーム観は、たぶんアーケードといえば格ゲー、コンシューマーといえばRPGだと思うので、いずれにせよシューティングはゲームの代表にはならない――まぁ個人差はあるでしょうが)、プレイしながらつらつら考えるに、東方はフラットなデータベース(設定の束)に趣向を走らせてつくられる80年代的偽史というより、むしろデータベース(「幻想郷」と呼ばれるもの)の内部に随時結界を引いて、そこを探査=攻略していくというタイプの偽史なので、ちょっと考え方を変えな

    negative-naive
    negative-naive 2008/11/26
    『日本語が滅びるとき』論を待望。ちなみにデータベースあるいはフラットの概念について根本的に誤っている気がするのは私だけなんでしょうか。
  • land and ground 「ベトナムから東浩紀に挑戦する」

    『思想地図』が出版されるようである。予告どおり、ここに完成稿を公開する。もとより勝手な「挑戦」であるから、その結果については読む方の判断にゆだねたい。 「トランスクリティークとポストモダン」 なお、これまでいささか冗長な「草稿」を公開してきたが、稿はそれとは独立した単独の論稿である。それでも、稿を読んで細かい議論に興味をもった方には、「草稿」と「『世界共和国へ』を読む」は参考になると思う。サルトルについては、あらためて時間をかけて取り組むつもりである。 また、稿の完成に先立って柄谷行人氏とお会いする機会があった。後半部分は、そのときのやりとりに着想をえて書いたものである。付記するとともに、この場を借りてあらためて柄谷氏に謝意を述べたい。 鈴木 基 ポスト・モダンな言説の「嵐」は、すでに少数の学者・批評家の範囲をこえて吹きまくっている。私自身の書いたものがその原因の一端であるといわれる

    land and ground 「ベトナムから東浩紀に挑戦する」
    negative-naive
    negative-naive 2008/11/25
    まるで東浩紀のような端的な図式的理解。その妥当性はともかく、見通しがよくなることは確実。数年後再読したい。GJ。
  • Pink floyd『The final cut』 - the deconstruKction of right

    別にこのタイトル作を直接論じるわけじゃないけど。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私はゼロアカ道場というのに参加し、「キャラ」化する批評家、そして2ちゃんねる上でパフォーマンスする批評家というキャラクター、をやってみていた。ゼロアカ道場自体は敗退したのだが、その動画を使った「キャラになる」というパフォーマンスは結構辛かった。ご覧になった方には見苦しい場面もあったのかもしれないが。 批評家で「キャラ」になるという事態は新しいのかもしれない。しかし、作家は、太宰とか、その気配は持っていたような気がする。「道化の華」とか、三島の『仮面の告白』とか、無頼派とか私小説家とか、生きていること自体がエンターテイメントと化してしまうという側面はあったと思う。これは池田雄一氏が小説トリッパー2008年秋号で「スペクタクルと文学」で、80年代の作家のスターシステムと、2003年度下半期の芥川賞以降の「純

    negative-naive
    negative-naive 2008/11/21
    この方面を、崩壊しない方向(あるいはより快適な方向)へと展開することは不可能ではない、と愚考する次第。メールさしあげました。ご多忙かとは思いますがご覧ください(私信)。
  • 1