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ブックマーク / www.highriskrevolution.com (26)

  • どうしてハドソンはROMカートリッジを自社生産しなかったか? | Colorful Pieces of Game

    『ハドソン伝説』に関係して「どうして独自カートリッジを生産しなかったか理由が書いてありましたか」と「ファミコンの最初期から任天堂さんがサードパーティとの生産委託の契約書を持っていた」という、正直な話として、1983-84年当時のことをいろいろ勘違いされているなというツイートを見かけたので、ちょっとここに書いておきたい。 まず「ナムコは独自でROMを生産したのに、どうしてハドソンは独自で生産しなかったのか?」。 答えは簡単で、ナムコはすでにマニュファクチャとして基板を大量生産する能力があったけど、ハドソンにはなく、なおかつそんなことをする金もなかったから。 当時、つまり84年ごろのハドソンはせいぜい数十人しか社員がいない小さな会社で、83年時点で売り上げが全部合わせて20億程度。 ROMの生産委託の2億行かないぐらいの費用すら、集めた問屋の注文を銀行に見せて、ようやく融資してもらっているサイ

  • さあにんさんの赤入れ | Colorful Pieces of Game

    ファミコン 誕生から37年も“現役” ブランド健在の理由(河村鳴紘) - エキスパート - Yahoo!ニュース 任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が1983年に発売され、7月15日に“37歳の誕生日”を迎えます。中古ゲーム店でもいまだにソフトが取り引きされており、ファミコンソフトのオンラインサー の記事について。編集者の赤字です。 「ファミリーコンピュータ」は、世界で6191万を出荷した家庭用ゲーム機で 単位が合っていません。 ですが20年後の2003年、部品の確保が難しくなり生産を中止、2007年には修理も終えて「ゲームオーバー」になったように見えました。 20年もゲームオーバーになってなかったのか! という驚きの方が多いんですが、どうでしょうか。 また特許権が切れたので、互換機がフリーになりました。なので今でも互換機で昔のカセットを遊ぶことができます。 またゲーム機「

  • さくま先生のこと | Colorful Pieces of Game

    先日、ちょっとしたことがあって、20年以上ぶりにさくまあきら先生に挨拶させていただく機会があった。 もう当に不肖の弟子筋(と勝手に思わせていただいております)として挨拶させていただいて、心の底から嬉しかった。 さくま先生は、僕にとってもうどれだけお礼を言っても言い足りない当の恩人にして先生と言える方だ。 1989年初頭、さくま先生(と桝田さん)は、どういう気まぐれだったのか、今でも不思議なのだけど『凄ノ王伝説』を僕の目の前でどんちゃん(と正確にはもう一人いたのだけど、まあどんちゃんで代表させておいて大丈夫なので、どんちゃんと書いておく)にプレイさせてくださった。 時期は、確か『凄ノ王伝説』のマスター前後だったと記憶している。ファルコムに行ったあとだったかは覚えていないのだけど『イースⅠ・Ⅱ』を(ファルコムがOKと言えば)やることは決まっていたと思う。 目の前で繰り広げられたどんちゃんの

  • 『電撃PCエンジンmini』のインタビューを受けました | Colorful Pieces of Game

    つい先日の話なのだけど、PCエンジンminiの発売を記念して、『電撃PCエンジンmini』が出版される話になり、それのインタビューを午前と午後の二立てで受けるってことになった。 午前は『天外Ⅱ』で、桝田さん・辻野さん・あだちさん・そして僕という4人のメンバー。 インタビューするのは『天外Ⅱ』を小学校の時に遊んだという子だったのだけど、桝田さん、いきなり「親が金持ちだったのか、友達が金持ちだったのか、どっち? CDROMって高かったじゃん?」 答えは「兄貴が遊んでたんです」。 「やっぱ家が金持ちだったんじゃん」みたいなパンチあふれる展開に。 Evan-Amos – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18312042 『天外Ⅱ』発売時にスーパーCDROMの主力になりつつあったのは

    nekomori
    nekomori 2020/02/02
    DUOは新聞配達して買いました。雑誌で天外2の発表を見たか何かでビビッときて。
  • ファミコン版FFⅡのアルテマはなぜ弱かったのか?::Colorful Pieces of Game

    Twitterでメモ書きした話をもう少しちゃんと残しておこうと思った。 ただの記憶でしかなく、細かいところに間違いがある可能性は十分にあるが、大枠は間違っていないはず。 25年前(1989年の初頭だったはず)、僕は自分のデビュー作、さいきょーRPG『凄ノ王伝説』の宣伝で、マル勝ファミコンの座談会に出してもらえることになった。この座談会は1988年冬~1989年初頭のゲーム業界で、言うまでもなく1988年2月に出た『ドラゴンクエストⅢ』で空前のRPGブームが来ていた、まさにRPGの全盛時代といっていいタイミングで行われていた。 僕自身はというとPCエンジン版の『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入る前で、さくまセンセイのところでどんちゃんに叩きのめされる前だったと思う。 自分のゲームに対する考え方とアプローチは『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入るまでの2ヶ月ほどで激変するのだけど、こんときはまだゲームを作るプロ

  • 続・ゼビウスの隠しコマンド::Colorful Pieces of Game

    TINY野郎さんもあとのツイートで書いているのだけど、これが事実であるかどうか、いまさら確認のしようはない(確認出来るならしたいが)。 ただ、いくつかの傍証から、かなり当に近いのではないかと思う。 以下は、その推測の理由。 1)当時、僕は関西(京都)在住で、京都/大阪界隈ではこの隠しコマンドの話は出回っていなかった。 当時、僕は京都/大阪をうろついていて、結構ゲーム仲間はいたが、その間ではゼビウスの情報は出回っていなかった。つまり関西発ではないと想像できる。 次に、ぱぱら先生の話では「コンプティークに載るより前に関東界隈で、この隠しコマンドが流布した」という話だ。 そして、上の話は情報の出自とともに、ぱぱら先生の話とも整合性がとれている。 2)大学のそういうところなら解析して見つけるのはありえる これは理由を説明していく必要がある。 ゼビウスが発売された1985年当時、日では主流のパソ

  • ファミコン版ゼビウスの隠しコマンドの話::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • The History Of Nintendoは途方も無い資料本だ!::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 海外での就職、質問にお答え篇::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 海外スタジオの就職システム::Colorful Pieces of Game

    ちょっとツイッターの上で海外の就職事情について話をする機会があったのだけど、まとめてブログに書いたことはなかったな、と思ったので書いておこうというわけだ。 海外(スタジオ)の就職は、日とは全く違う。 違いその1。 新卒一括採用がない。 じゃあ、どんなふうにして人を取るのか? 例えばあるスタジオで、デザインディレクターが「ゲームデザイナーが足りない」と感じたとする。 そうなったら、スタジオマネージャー(および他のディレクタークラス)と相談し、予算に問題がなく、そして実際に必要だという判断が立ったら、必要な要件をまとめ、HR(Human Resource)に求人してくれ、と言いつつ、自分もlinkedinやあちこちで「これは」って人間を探して声をかける。 応募が来たら、テストを行い、そして次にミーティングをして、オッケーなら採用する。 と、こんなプロセスだ。 つまり「人事権はディレクタークラ

  • 8ビット時代のグラフィックについて::Colorful Pieces of Game

    twitterで、X1やSMC-777などのVRAMがI/Oポートの先にある設計をおかしいハードだと書かれていたので「あー、今の目で見るとわからんか」と思うと同時に、それがゼンゼンおかしいどころでなく、とてもリーズナブルな設計の一つであったのだ、という話をここに書いておこうと、突然思ったので書く。 まず、当時のパソコンでとても主流だったグラフィックスを解説すると640x200。 RGB1ビットずつのデジタル8色。縦横8で割るとわかるが80x25。つまり当時のキャラクタ画面のドットに1:1対応するグラフィクスだ。 これRGB、それぞれのプレーンのサイズをKBで表すと16KB。 今から見ればカスのようなサイズだけど、アドレスバスが16ビットしかない8ビットマシンでは大問題になる。 アドレスバスが16ビットってことは、64KBが直接アクセス可能なメモリ量ってことになる。ここに16KB*3のプレー

  • 1991年6月 仕様削減::Colorful Pieces of Game

    「あーいいよ、季節のグラフィック削ろう。グラフィックはなくても成り立つんだよ」 市ヶ谷の天外2開発室で、開発のメインメンバーが集まって会議をしている中で、桝田さんが面倒くさそうに、少し投げやりな口調で言っていた。 僕は猛烈に機嫌が悪くなっていた。 山根がついにギブアップし、このままでは天外2のグラフィック(特にマップ)は間に合わないと言った瞬間だった。 オリジナルの天外Ⅱの企画では、全マップに季節があり(春夏秋冬)、イベントも季節に合わせて設計されていた。 だからシナリオは、秋の飛騨から話が始まり、冬の京都の北で絹と会って、春から夏に向かって進み、大文字で終わる、つまり桝田さんは季節の移り変わりを楽しんでもらうために、秋⇒冬⇒春⇒夏と、季節ごとに京都に戻ってきて、また出て行く、シナリオ上の構成をとっていた(なんでか夏からスタートするとか書いてたので修正)。 そして、これは前にも書いたことだ

  • KPIとゲーム::Colorful Pieces of Game

    いくつかの会社のF2P(Free to Play つまり基無料の事)かつ、だいたいにおいてソーシャル要素を持ったゲーム、それも海外と国内の両方にこの1年ほど関わってきて思ったことをメモ代わりに書いておきたい。 2013年現在、日のソーシャルゲームの実力は世界でもずば抜けたものなのは間違いない。 ずば抜けてる点は何か? KPIによるユーザーの分析とそれによるゲームのフィードバックループの速さだ。 KPIは、Key Performance Indicator。 最近、名称は知られてきたけれど、まあ雑に解説するとゲームがうまく行っているかを知るために重要視される数値のことだ。 例えばDAU(Daily Active Users)が多ければ、賑わっているといえるわけだし、ARPU(Average Revenue Per User)が高ければ「課金してくれる人が多い」ってことになる…てな具合で、

  • FF13-2をやって思ったモロモロのこと(8/終)::Colorful Pieces of Game

    いろいろ、今まで長々と書いてきたし、文句も書いてきたけれど、FF13-2の基的な評価をするなら、基的には一流品、それも超一流品なのは間違いない。 たとえば操作性について見れば、これを悪いというとバチが当たるだろうと思う。メニューの構成の好き嫌いとかシステムの好き嫌いはあろうが、反応はいいし、使っていて突っかかったりイライラすることはない。 ムービーとグラフィックスについては、マップや敵キャラクタについて、たぶんFF13からかなりの流用をしていると思われるけれど、それの出来が悪いのか? と言われた「いいや、とてもいいと思う」だ。もちろんモデリングやエフェクトについては超一流なのは間違いない。 ムービーのQTEについては「それにどれほどの意味があったのか?」と書いた通り「だからどうした」でしかないと思うし、それに投入したコストを考えれば価値はなかったと僕は思うけれど、出来が悪いのかといえば

  • 天外IIのUIについて(2/終)::Colorful Pieces of Game

    前回のにちょっと追記。 FFIVの大ヒットで「話す・調べるボタン」が確立したのは、全く疑いもない事実で、これ以降のRPGでは普通が「話す・調べるボタン」になっていく。 そして、それがデファクトスタンダードとして決定したと満天下に示したのがドラゴンクエストV(SFC/1992年9月)。 ドラゴンクエストVで「べんりボタン」という名前で話す/調べるボタンが搭載され、これで世の中は「話す/調べるボタン」が主流になりました、と宣言されたようなものだった。ちなみにドラゴンクエストVでは「はなす」は相変わらずメニュートップの最初の位置にあり、Aボタンの2連発で話せるようになっている、いわばハイブリッド仕様だった。 「FF4と天外IIの発売日などから考えるに、UIの変更は間に合ったけど、戦闘システムはさすがに変える余裕がなかったってことですね?」 こういう質問がツイッターで来てたのだけど、天外Ⅱではもと

  • 天外IIのUIについて(1)::Colorful Pieces of Game

    しばらく間が開いてしまったので、リハビリがてらに、前回の続きではないけれど、作っていた人間にとってはいろいろ思いで深い話などちょっと書いてみたい。 つーか、こんな風に落ち穂拾いしていかないと、なんだか粗筋だけの小説みたいになりそうな気がしたので、いろいろ書いていこうというわけ。 今回は、UI、ユーザーインターフェースについて。 さて。 天外2というゲームは対面戦闘の全盛時代が終わりにかかろうとしていた、スーパーファミコン登場前夜に企画がスタートし「王道」を要求されたために、実にこまごまとUI周りに微妙な問題が発生したソフトだった。 そして、たぶん2回でまとまる予定の、このシリーズではちょっとそれについて書いてみようというわけだ。 天外2の企画がスタートしたときは、まだ「Aボタン(PCエンジンではIボタンだが、面倒なのでAと表記する)」を押すことで、目の前の人と話したり、宝箱が開いたりといっ

  • 15年以上前のCDROMはバックアップしたほうがいい::Colorful Pieces of Game

    今、たまたま日に帰ってきているのもあり、僕が持っている開発バージョンのPCエンジンCDのバックアップをしていた。 1989年頃のCDだから、23年前のディスクだ。 当ならPCエンジンのCDROMは全部バックアップを取っておきたいのだけど、さすがに枚数が多すぎて、今回は開発ディスクと自分の好きだったソフトに絞ろうと思っているのだけど、このバックアップを取っている作業をしているうち、89年10月21日版のイースが読めない事実が判明した。 まあ海外版イースだの一番古いイースだののあたりは読み取れて、89年11月7日がイースのマスター版なので、これはデバッグのほぼ最終版、言い換えるなら違いがほとんどないバージョンだからまあいいか…などと思っているのだけど、なんにしても23年前のCDROMの読み取りは既に不安定なものがあるというのだけは確かだ。 CDは発売当時は半永久的に保つことに宣伝ではなって

  • ゲームレビューについて(3)::Colorful Pieces of Game

    よくレビュー批判をする人が公平性がだの客観性だの言うが、レビューに客観性などありえない。 自分がプレイした、どう思ったかを書くのだから、主観に決まっている。 客観性だの公平性だのをレビューに求める人は、根から間違っている。そんなことを出来ると信じるほうがどうかしているのだ。人は客観になれるわけもないし、公平になれるわけもない。 レビューは分かりやすく書けば「僕はこのゲームを面白い・詰まらないと思いました、なぜならXXだからです」が書いてある場所だ。 そして「なぜ面白いと思ったか、詰まらないと思ったかを分かりやすく人に伝え、人がソフトを買いやすくする(もしくは回避しやすくする)」のが努力目標だ。 客観だの公平だのと言う人は「何が客観で公平なのか」を定義して、次にそれを実現する方法を明快にしてから語ってもらいたい。 あと、ケチつける低得点のレビューを辛口とか喜ぶ人がいるが、ケチつけるレビュー

  • DSの『有野の挑戦状2』をプレイして思ったこと::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • メタルギアピースウォーカー(2/終)::Colorful Pieces of Game

    前編では、MSX2で初登場したメタルギアは、メタルギア2でレーダーとミニマップを実装することで、2Dのスニーキングゲームとして完成の域に到達した。だがメタルギアソリッド(MGS1)は3Dゲームで、3Dゲームの視界やマップの問題点から敵に見つかるとレーダーとミニマップが使えなくなるルールを維持したため、マップが見えなくなる問題が発生してしまい、マップが見えなくなったとき2Dとは比較にならないほどペナルティが厳しく、また迷子になりやすいといった問題も起きた。 この点については間違いなく小島監督は意識していたと思う。意識してなかったら、MGS2であんなにソリトンレーダー周りをチマチマ弄り回すわけがない。だが、MGS2では「ゲーム内で前作から経った時間」を考えると、ソリトンレーダーを消すわけにも行かないし、ヘタにルールを変えるわけにも行かない。結局の所、小規模な改良で納めざるを得なかった、というの