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ブックマーク / sportiva.shueisha.co.jp (4)

  • 川井一仁が語る「アイルトン・セナ、20年前のあの日......」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 川井一仁が語るセナpart1 サンマリノGP決勝レースの事故で、アイルトン・セナがこの世を去った1994年から20年。当時を知るドライバー、ジャーナリストらに、F1への思い、セナへの思いを語ってもらう第2弾は、セナがF1デビューした当初から現場で取材を続け、長年F1中継のピットレポーターを務めるF1ジャーナリスト川井一仁氏。 あの日、イモラの現場で何が起きたのか? そして、アイルトン・セナとは何だったのか?「川井ちゃん」が見た、カリスマの素顔とは――。 1984年にF1デビューを飾ったアイルトン・セナ photo by Studio M.m/AFLO 最近、セナの没後20年ということで、いろいろな人から取材を受ける。だけど、不思議なことに、あの日の記憶はすごく「断片的」なんだ......。もちろん、あの日に限らず、20年も経てば、忘れてしまったことは

    川井一仁が語る「アイルトン・セナ、20年前のあの日......」
    nekomori
    nekomori 2014/05/05
  • 川井一仁が明かす「忘れられないセナとのケンカ」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 川井一仁が語るセナpart2 part1はこちら>> アイルトン・セナが新興チームのトールマンからF1にデビューしたのは1984年。その後、ロータス・ルノーでの2シーズンを経て、87年にホンダがロータスへのエンジン供給を開始。 それが「セナとホンダ」という伝説の始まりとなる。一方、86年にホンダのモーターホーム運営スタッフとしてF1のパドックで働き始めた川井一仁氏は、同じく87年、中嶋悟のF1フル参戦と共にスタートしたフジテレビF1中継のレポーターへと転身。以来、日のF1ファンに「川井ちゃん」と親しみをこめて呼ばれ、最も近い場所でセナの戦いを見つめ続けた日人のひとりとなった。 そんな川井氏にとって、セナは唯一の「カリスマ」であると同時に、F1の「同級生」という意識もあったという。 94年4月、岡山で開催されたパシフィックGPでのセナ photo

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    nekomori
    nekomori 2014/05/05
  • 【プロ野球】斎藤佑樹「野球が嫌いになりそうな時期もあった」

    今シーズン19試合に登板して、5勝8敗、防御率3.98だった斎藤佑樹 入団2年目の今シーズン、栗山英樹新監督のもと斎藤佑樹はファイターズの開幕投手に指名された。その期待に応えるように、開幕戦をプロ初完投勝利で飾ると、さらに4月20日のオリックス戦では初完封をマーク。ダルビッシュ有が抜けたファイターズ投手陣の新エースに名乗りを上げた。だが、6月6日のバースデー勝利を最後に勝てない日が続き、7月29日のオリックス戦のあと、ついに二軍降格を命じられた。その後も満足のいく結果は得られず、結局、一軍昇格を果たしたのはシーズン終盤だった。順調なスタートを切ったはずの斎藤佑樹に、いったい何が起きていたのか。激動の2年目を振り返ってもらった。 ―― 19試合に投げて5勝8敗、防御率は3.98......。斎藤佑樹投手にとってのプロ2年目は、どんなことを感じたシーズンでしたか。 「あらためて、野球は難しいと

    【プロ野球】斎藤佑樹「野球が嫌いになりそうな時期もあった」
  • 【柔道】日本柔道、ロンドン五輪『惨敗』の真相

    100kg超級出場の上川大樹が2回戦で敗れ、男子柔道は五輪で初めて金メダルなしという結果に終わった ロンドン五輪で、金メダルが松薫(女子57キロ級)の1個にとどまり、男子は史上初めて金メダル「ゼロ」という惨敗を喫した日柔道。柔道の母国としての威信を失った最大の要因は、強化体制の不備および世界の柔道への対策が不徹底だった点に尽きるだろう。 北京五輪後、男子の監督には篠原信一氏が、女子の監督には園田隆二氏が就任した。それまでの代表コーチ陣は、ふたつないしひとつの階級を担当する形をとっていたが、ふたりの監督就任を機に担当制を廃止し、コーチの数も5人から3人に減らした。 北京以前は、担当コーチと選手は二人三脚で該当階級の海外選手を研究し、対策を練っていた。ところが現体制ではコーチ陣が全階級を担当するため、個別の対策がどうしても不十分となってしまう。また、ひたすら走り込みと、乱取りの数をこなすよ

    【柔道】日本柔道、ロンドン五輪『惨敗』の真相
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