仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである、答えを自己のなかに求めないことだ。すべての現象のなかに自己を証すのだ。 ――道元『正法眼蔵』、第一巻「現成公按」第60段、石井恭二訳 ささやかな仏寺をひらくために今春、英国ブライトンへと旅立ったUへ捧げる 「悟り」の描写については、鈴木大拙が語ったものが、いちばん的を射ている。彼はこんなふうに言った――人間は日々、生きて、変化していく。だとすれば、宗教やその教えもまた、生きている人々とともに変化していく。完成した宗教などというものは、あり得ない。生きている人々によって、既存の教義には、つねに新たな解釈が加えられていくだろう。 わたしの考えでは、仏教の始祖である仏陀は、涅槃へ至った。それはどんなものだろうと、わたしはしばしば想像してきた。 それはこんなふうだ。空々寂々とした無辺の地で、ひとりの修行