タグ

ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (31)

  • 戦争倫理学への補注 - shinichiroinaba's blog

    今日びの動向を見ながら近刊予告 - shinichiroinaba's blogへの補足を試みる。 ==================== 『社会倫理学講義』で戦争倫理学についても少しだけ論じたが、そこではあまりはっきりと立場を打ち出せなかったので、このウクライナ戦争を前にもう少しはっきりさせようと思う。 そこで我々はリベラリズムの政治哲学と矛盾しないリベラル戦争観とでも言うべきものをおずおずとながら提示した。その要点は結局のところ「戦争と平和の区別をはっきりつける」とでも言うべきものだったかと思う。戦争そのものを悪として否定し、なくすべきだという議論は提示しなかった。実際問題としてときに暴力は噴出し、暴力を用いた紛争は現実に起きてしまうものなので、いかにそれを抑え込み、管理するかという方向で議論を進めた。戦争を絶対に否定すると、実際に起きてしまった戦争を前にそれをあたかも絶対悪である

    戦争倫理学への補注 - shinichiroinaba's blog
  • 本日の講義(社会学史)をもとに - shinichiroinaba's blog

    岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』というは日の社会学の現状についてのよもやま話であり、「社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージを派手にやっているという変なですが、その背景について少し考えてみましょう。 ひとつにはこれが著者たちをデフォルメしたファンシーなイラストを表紙にしたうえに、缶バッジなどのノベルティまで展開する下品な販促を仕掛けている、という事実の含意です。書の版元である有斐閣は元来、法律書を中心に人文社会科学の学術書を手広く展開する老舗出版社であり、ひどくお堅いイメージがありますが、近年では重心が法律書、学術書からより広い分野の教科書、入門書へとシフトし、合わせて全体としてライト化、ポップ化の印象があります。よく知られているところでは西洋貴族の紋章風の、獅子と鷲をあしらった社章を「シッシーとワッシー」とゆるキャ

    本日の講義(社会学史)をもとに - shinichiroinaba's blog
  • 余剰モデルと消費貸借モデル再び - インタラクティヴ読書ノート別館の別館

    木庭顕がマルセル・モース、レヴィ=ストロース、そしておそらくはカール・ポランニーを意識しつつ交換echangeというとき、それはいわゆる「贈与交換」のことであるが、ここで大事なことは、この「贈与交換」が時間の流れの中で行われる非対称的な営みである、ということだ。すなわちそこでは贈る側が先手を取り、贈られる側が受け身となる。これが「交換」である以上贈られた側は返礼をしなければならない。しかしそれは一見、貨幣経済の中での貸借関係のように見えて実は違う。貨幣経済の中での貸借は、貨幣を媒介とした等価関係が明快に定義できるようになっているが、貨幣という尺度が確立する以前の贈与―返礼関係にはこうした明快さが欠けている。性急な一般化は避けなければならないが、このような場合には先手がリーダーシップをとってしまう可能性が高いのではないだろうか。 ポランニーの図式に従うならば、非市場的な取引様式のいま一つの類

    余剰モデルと消費貸借モデル再び - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
  • 中江兆民『三酔人経綸問答』評 - shinichiroinaba's blog

    ゼミでしゃべったことをもとに。 ================== 中江兆民『三酔人経綸問答』というの切迫感とアクチュアリティを支えているのはその独特の問答体、三人のキャラクターが、それぞれある程度一貫した政治思想的なスタンスのみならず、人格的な個性、肉体的な息遣いまでをも割り振られ、論争を繰り広げるという体裁である。これはたとえば丸山真男が指摘している通り、世界的にのみならず、日の思想史上もいくつかの先例を見つけることができるスタイルであるが、その中でもある種の突出性を帯びている。 複数の登場人物のうちの特定の一人、主人公格のキャラクターが、著者自身の思想を仮託され、他のキャラクターたちはこの主人公、すなわちは思想家としての著者自身に対する(仮想)論敵としてありうべき疑問、反論を突き付け、それに対して主人公が応じる、というスタイルは、ひとつのありふれたパターンである。はなはだしい場

    中江兆民『三酔人経綸問答』評 - shinichiroinaba's blog
  • いっちーの新著(8日追記) - shinichiroinaba's blog

    社会学 (ヒューマニティーズ) 作者: 市野川容孝出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/06/08メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 2人 クリック: 120回この商品を含むブログ (1件) を見る いただきもの。冒頭、師匠吉田民人の思い出から語り起こし、コントからドイツ社会医学、社会政策学を縦横に論じて社会学を徹底して歴史的文脈におきなおす、大変に勉強になる好著という感じであるが、ちょっと見たところで非常に引っかかったところもある。 そもそも三浦銕太郎・石橋湛山を「スミスやスペンサー的な経済自由主義」と形容したり、小日主義を「脱亜論の変奏にすぎない」などというのはミスリーディングを通り越して噴飯ものである。「一国内における社会的なものの追求が、対外的にはコロニアリズムの推進を導く場合がある」と非常にいいところに気がついているというのに、台無し。なおこの点につきここをも参

    いっちーの新著(8日追記) - shinichiroinaba's blog
  • 「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ(25日追記) - shinichiroinaba's blog

    『社会学入門』「社会学の居場所」においては、対象を支配する一定の法則の具体的内容を前提として、そこから対象のふるまいを予測しようとする姿勢を「工学的」、それに対して対象を支配する未知の、しかし一定の法則の存在を仮定し、その法則の具体的内容を探り当てようとする姿勢を「科学的」と呼んだ。そしてそれに対して、理論社会学の一部(ポスト・パーソニアンの社会システム論)を支配した欲望を、法則そのものの多様性、更には可能であればその法則そのものの変容を支配する更なるメタ法則の理解を目指すものと解釈した。 しかしそのような欲望には質的に倒錯的なところがあり、どのような「メタ法則」を想定しても必ずやその背後に更なる「メタメタ法則」を想定してしまうことができるがゆえに不毛である、と『入門』「居場所」では断じた。それはちょうどカール・ポパーがマルクス主義を「歴史(法則)主義」と批判したのと同様の論理である。

    「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ(25日追記) - shinichiroinaba's blog
  •  「無能な者たち」をめぐって - shinichiroinaba's blog

    http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html 「無能」にまつわる小玉重夫の議論は言うまでもなく田崎英明『無能な者たちの共同体』を踏まえたものであるが、田崎の語り口は小玉のそれに比べるともう一段ガードが堅い。 小玉の語り口は余りにも見え見えというか、謙虚なそぶりをした傲慢、無防備なルサンチマンの露出という弱点がある。もちろん小玉による「無能」論は田崎のそれと無縁というわけではなく、韜晦気味の田崎の議論をわかりやすくパラフレーズしたものであるといってよいが、田崎の表現はもっと不気味なものだ。小玉の議論がわかりやすく謙虚なそぶりにおいて、すなわち「無能」に対する「有能」の優位をとりあえず認めつつそれを脱構築し逆転するという形で論が示されているのに対して、田崎はより直截に臆面もなく、「無能」の「有能」に対する優位を

     「無能な者たち」をめぐって - shinichiroinaba's blog
  • トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」用メモ - shinichiroinaba's blog

    昨日24日の「現代経済思想研究会・特別セミナー 稲葉振一郎・田中秀臣・山形浩生・トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」」は盛会のうちに無事終了いたしました。お越しくださった皆様、ありがとうございました。 当日のレポはtwitterをもとに前田敦司さんがこちらにおまとめになっていらっしゃいます。また田中さんの感想兼問題提起はこちらです。 いかにペーストするのはぼくが事前に自分用に作った覚え書きです。私的メモですからいい加減です。読み上げ原稿ではありません。実際の会ではここでの論点の半分くらいしか出せていません。 ===================================== 山形浩生の芸術論を少し敷衍してみよう。 山形によれば、芸術の主たる機能は、人間の認知能力の「別の使い方」を開示・例示してみせるところにある(「アート・カウンターパンチ」)。 ここで

    トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」用メモ - shinichiroinaba's blog
  • 「占有」について - shinichiroinaba's blog

    いい加減なノート。やっと立岩理論の意義と限界が見えてきた感あり。 ============================ 昨今の「市民社会」ブームの中ではほとんど忘れ去られていた、戦後日マルクス主義の一ウィングとしての「市民社会派」はマルクス『経済学批判要綱』の用語法で言うところの「領有法則の転回」を資主義理解の鍵となし、「労働に基づく領有」から「蓄積された労働=資に基づく領有」への転回を、来の市民社会からその頽落形態としての資主義社会への転化の態と考えた。そして剰余労働の搾取に基づく資主義社会は否定しても、「労働に基づく領有」を基軸とする市民社会は肯定しようとし、そこにおける所有をマルクスの用語法に従い私的所有とは区別される「個体的所有」と呼んで、社会主義革命をその再建、すなわち所有の否定ではなく変容、来のあり方への回帰として理解しようとした。 このような理解に対して、

    「占有」について - shinichiroinaba's blog
  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    まあこの辺は『「公共性」論』の焼き直しですが。 ======================= ハーバーマス自身の議論をストレートに受け止めるならば、「公共性の構造転換」は非常にありふれた議論であり、マルクス主義社会科学の土俵においてはそれは「自由主義から帝国主義へ」の展開であるし、政治思想史的な言葉づかいを用いるならば「議論する公衆の没落、消費する大衆の台頭」ということになる。すなわち、自由な市場はその中から独占的大企業が発展することによって自壊し、資主義経済はある意味で重商主義的な、政府による介入と統制に支えられた仕組みに先祖返りする。開かれた市民社会は、閉鎖的な団体的秩序に回帰していく。(「再封建化」という表現もある。) もちろんそれを支える政治体制は相当程度民主化されており、かつての重商主義体制を支えた絶対王政とは違うが、この民主政治においても市民社会的な開放性は失われていく。政

    「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog
  • 社会学を志望しようかなと思っている大学受験生のために(2011年度版) - shinichiroinaba's blog

    今年も模擬講義の季節がやってまいりました。 とりあえず埼玉県立越谷北高校の皆さん、お約束のバージョンアップ版です。 再来週は都立三田高校に参ります。 ========================== 社会学は経済学政治学と並んで「社会科学」の仲間とされていますが、日の大学では大体社会学科は(もちろん、社会学部のないところでは、ですが国公立大学にはほとんど社会学部はありません)文学部に配置されています。なぜこうなっているのかといえば、社会学部は他の社会科学と比べて「主観」、人間の主観的な意識、心をその焦点とするからです。 経済学をはじめとして他の社会科学は「客観」的現実に照準を合わせますが、社会学はこれを無視するわけではないにせよ、人間がそうした「客観」的現実をどう「主観」的に経験し、その経験から「客観」的現実にはたらきかけていくか、を主題とします。その意味で人間の「主観」に照準する

  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    ロックを現代的な意味での「市民社会」のパラダイムとみなすことには以上みたように十分な理由もあるが限界もある。更にここではもう一つ、ロックにおける「都市」観念の希薄ないしは不在について注意を喚起しておきたい。 ロックの『統治二論』テキストを走査してみればcityなる語の使用は極めて少ないし、また固有の対象、問題系としての都市について主題化されることもない。ロックにとって統治権力によって統合された共同体としての国家――ロック自身はcommonwealthなる語を充てる――と都市とを区別して理解していることが示されるのみで、ロック自身が都市――当時の英語でcityと呼びならわされていたもの――の意義についていかなる理解を抱いていたのか、は示されない。イギリス的なコモンウェルス、そして近世の初期主権国家がもはや「都市」とは区別される領域国家であること、ロックがそれを主題としていることはそこから推測

    「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog
  • シノドス・セミナー「社会学の居場所」 - shinichiroinaba's blog

    こちらでご報告した、2009年12月13日に行われたシノドス・セミナーの記録です。『アルファ・シノドス ―“α-synodos”』vol.46(2010/02/15)、vol.47(2010/3/1)から転載。 ================ 「社会学の居場所」稲葉振一郎 今日お話ししようと思っていたことが何点かあります。『社会学入門』(NHK出版)を読んでくださった方の多くは、このには穴があることに気づいておられて、その穴が今後どのように埋められるかと思ってらっしゃると思います。日はちょっとそれを意識しながらやっていこうと思っています。一つには、ある程度書き込んだけれども、入門書にはふさわしくないのではないかと、削った話題が一つあります。第12講で、科学的アプローチと工学的アプローチという対比を行いましたが、来はあそこで、より具体的に説明するために力学系モデルの話をしていたんです

    シノドス・セミナー「社会学の居場所」 - shinichiroinaba's blog
  • 9月18日日本社会学会シンポジウム・コメント原稿 - shinichiroinaba's blog

    お約束通りこちらにアップします。当日読み上げられたのは2の冒頭までです。 しかしあのシンポ会場は実にいい意味で不穏であったのに不完全燃焼感著しい。壇上に市野川容孝と安藤馨がそろうというだけで十分アレなのにフロア最後列では小泉義之がいつもながらの怖い顔で壇上をまっすぐ睨みつけていたし、その他かなりやばめの面子がそろっていたというに。 なおわたくしごとになりますが、終了後は市野川、更にフロアにいたid:contractio、id:yeuxquiと連れだって梅田に繰り出し、うちで寝ていた岸政彦を呼んでお酒をいただきました。 いっちーは終始上機嫌。「安藤馨スゲー!」を多分百回は言った。かつての東浩紀「ソルジェニーツィン試論」以上の衝撃であったという。 ===================== 1. 著書『社会』前後から市野川容孝が追究してきた「社会的なるものの社会的構築」という問題系、すなわち、

    9月18日日本社会学会シンポジウム・コメント原稿 - shinichiroinaba's blog
  • 労使関係論とは何だったか - shinichiroinaba's blog

    hamachan先生の 来労働問題というのはどぶ板の学問である労使関係論が中心であって、それに法律面から補完する労働法学、経済面から補完する労働経済学が、太刀持ちと露払いのごとく控えるというのが来の姿。 これはちょうど、国際問題というのもどぶ板の学問である国際関係論が中心であって、それを国際法学と国際経済学が補完するというのと同じ。 (中略) ところが、労働問題は国際問題と異なり、その中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している。空間的、時間的に何がどうなっているのかを知ろうというどぶ板の学問が押し入れの隅っこに押し込まれている。そして、来理屈が必要になっておもむろに取り出すべき労働法学や労働経済学が、我こそはご主人であるぞというような顔をして、でんと居座っている。 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-2

    労使関係論とは何だったか - shinichiroinaba's blog
  • 「労使関係論」とは何だったのか(3) - shinichiroinaba's blog

    段階論のベンチマークとしては大別して上部構造的な「政策」「法制」「イデオロギー」と、下部構造的な「生産力」「産業組織」との二通りが考えられる。そして両者の予定調和は必ずしも保障されていない。結論から先に言えば、後者の契機に着目したうえで、実証研究の精度を上げていけば、行きつく先は段階論の否定にならざるを得ない。資主義的市場経済の展開の中で、市場構造も産業組織も、細かく言えばセクターごとに多種多様であり、それぞれにおいて必ず「自由競争→独占」という傾向が存在しているわけではなく、また個々の企業のみならず、産業のレベルで栄枯盛衰、新陳代謝が繰り返される。それは全体としての「段階」というくくり方を暫定的にしか許さない。 そしてとりわけ既にみたような戦後初期の「東大学派」の労働問題研究の文脈においては、「段階論」にとってのみならず、マルクス経済学的資主義論にとってどうしても原点になってしまわざ

    「労使関係論」とは何だったのか(3) - shinichiroinaba's blog
  • 「労使関係論」とは何だったか(4) - shinichiroinaba's blog

    文献全部日においてきた状況で記憶だけを頼りに書くには無理があることなど百も承知。まあいい加減あきらめて大原社研雑誌のサーベイシリーズを読みますよ。 - 政策論的、あえて言えば政治学的かつ知識社会学的な段階論解釈に理があるとは言っても、あくまでも下部構造、生産力に焦点を当てて「段階論」を解釈していくアプローチの方が、もちろん「経済学」というディシプリン全体では主流であり、それは労働問題研究においても例外ではない。更に言えばそうした発想はマルクス経済学独自のものではなく、経営学、経営史学においても、たとえば「見える手」について論じたアルフレッド・チャンドラー流に、19世紀末から20世紀初頭にかけての、株式会社制度による巨大な資集中と、官僚制組織による巨大な労働力集中を可能とした、近代的な会社組織成立という質的な転換を見出す立場が大きな影響力を持っている。 問題は、何がそのような変化をもたら

    「労使関係論」とは何だったか(4) - shinichiroinaba's blog
  • 「労使関係論」とは何だったのか(5) - shinichiroinaba's blog

    技術決定論、あるいは技術変化を外生変数としてカッコにくくる立場から脱却し、「問題の切り分け」を行うためには、「技術選択・技術変化の政治経済学」とでも呼ぶべきものが必要となるが、それは60年代の日においてはまだ望むべくもなかった。 マルクス主義の陣営においては、素朴な技術決定論への批判は、60年代以降の新左翼的ネオマルクス主義の勃興とともに、70年代以降格的に起こってくる。日においては戦後初期の武谷三男、星野芳郎らの技術論を継承しつつ、工場現場での技術者としての実践を踏まえた中岡哲郎らの産業技術論が出現し、熟練の解体についての疎外論的な議論を展開した。合衆国では、工場労働者としての経験を踏まえたハリー・ブレイヴァマンの『労働と独占資』が上梓され、それを受けてラディカル・エコノミストらによる生産過程分析が盛んとなり、スティーヴン・マーグリンやボウルズ&ギンタスらの、技術選択をめぐる階級

    「労使関係論」とは何だったのか(5) - shinichiroinaba's blog
  • 「労使関係論」とは何だったか(2) - shinichiroinaba's blog

    「段階論」 宇野弘蔵の独自のマルクス経済学体系において、労働問題研究に対して、のみならず日の社会科学全般に対して最も影響力が大きかったのはその「段階論」の部分である。段階論自体は宇野理論の独創ではもちろんなく、20世紀マルクス経済学そのものにとってのキモと言うべきポイントであるし、更に言えばマルクス主義の独占物でもあり得ないのだが、20世紀を19世紀とは質的、構造的に異なる社会として把握する枠組みとしての「段階論」の、日におけるもっとも洗練されかつ影響力があったバリエーションが、宇野学派のそれであったとは言ってよいだろう。 宇野学派の段階論において、何が資主義経済の発展段階を画することになるのか、についてはある程度の含みがあり、論者によって強調点もことなる。段階論を定式化した宇野自身の著作は『経済政策論」であり、国家の経済政策、それを先導し総括する政策理念を段階のベンチマークとしてい

    「労使関係論」とは何だったか(2) - shinichiroinaba's blog
  • 今日も平和な経済学村 - shinichiroinaba's blog

    ――としかぼくは思っていないんですが。 http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20081226/1230274589 よーわからんのですが、「辛辣な悪意」とか誰のこと? ぼく? 田中さん? arnさん? ドラエモン氏? 他の人のことは知らんですよ? ぼく個人は小島さんに「悪意」はないつもりですが。arnさんは相当辛辣だが、別に小島さんを個人攻撃したいんじゃないでしょう。田中秀臣さんだって、政策レベルで相当真面目に批判しているんであって、人身攻撃したいんじゃない。ドラエモン氏は小島さん個人についてあれこれ言ってるんじゃなくて、一般的雰囲気について慨嘆してるだけ。 無視するなら無視でいいんですよ。でも問題を「悪意」とかの方にすり替えるのはいかんでしょう。大体世の中「悪意」よりもっと恐ろしいのは「善意によるいじめ」だということはさておいて。(田由紀さんとのこ

    今日も平和な経済学村 - shinichiroinaba's blog