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ブックマーク / sottish.hatenadiary.org (3)

  • 周辺日記 - 書き手の文学

    個性などと言うフレームワークはそろそろ潰してしまう 問題は、そうした「面白みの無い存在」としての、つまり理念として演じられる自己や自我というのに則って物を考えたり書いたりするのは、ひどく簡単だということだ。ある書式を覚えこみ、それに適合する話題とロジックが一通りそろってしまえば、その後にやってくるのはわずかな文節の差異しか持たない、質的には何一つとして違っていない、堂々巡りの同じ思考。しかし、読んでいる者はとにかくも、書いているものには、そこに費やした無駄な熱量の分だけ、何かが進歩したような気分だけはもたらされる。具合の悪いことに、手管が簡略化され、より効率的になればなるほど、脳味噌は死んでいくにも関わらず、「何かいいものが書けた」という変な満足感が生まれてしまう。多分、「筆が乗る」というのは、そういう状況を指している。乗っているときの筆は、僕ら自身の腕が動かしている筆ではない。 htt

    周辺日記 - 書き手の文学
  • 2006-02-12

    インストールをようやく買って読めた。といってもタイトルの方はまだで、おまけのように付いている『You can keep it.』から読んだ。インストールのはじめの二、三ページだけを読んだのだけれど、よくこれで新人賞の予選を通過したなと思った(作品とは別のところで出される評価基準で通った、というようなことを言われるようなことをいわれても、まあ、おかしくはないと思った((ぼくは特にそんなものどうでもいいけど)))。それと関係があるのかも知れない。『You can keep it.』を読んでいると、恥ず:かしくて仕方がなかった。小説に限らず、なにかを読んでいて、恥ずかしくなることはよくあることだけれども(そもそも他人に書いた物を読まれることはとても恥ずかしいが、それは置いて於いて)、その源泉こそが、小説の問題で、つまりなにかしらの価値があるとするらならば、恥ずかしさを感じたというただ受動的なもの

    2006-02-12
    nisemono_san
    nisemono_san 2006/02/12
    『作者自身を痛いと感じさせてしまっては、それはその辺の変な宗教家が書いた本や、言っていることとなんの変わりもない。』あの人のいってることは全部ネタと思われてしまわれないような配慮を。
  • 2006-02-11

    愛というのは文章に対する愛ではなく、どうしようもない駄文を書いてしまった自分を擁護したい、自己愛で、駄文というのは、昨日の日記のような、どうしようもない文章だ。もう、ほんとうに、どうしようもなくて、情けない。感傷というものには、気をつけなければならない。感傷は危険だ。英語でいうとdangerousでriskyだ。感傷をいかにtrickyにするか、そこにしか感傷の価値はない。そうぼくは思っている。感傷は浸るものではなく、葛藤するものだ。そういうことを、折り目正しい日語でいうと、素直になれない、とも言うが、まあ、そんなことはどうでもいい。感傷は嫌いだ。そして感傷的な文章はもっと嫌いだ。さもしくて、厭らしくて、不潔で、スケベだ。 駄目なところを上げてみよう。まだ冒頭は許せる。屋までも許せる。曖昧な返事も許せる。そこからが、てんでなってない。それでもまあJAZZまでは、許す。空間的な移動は、一

    2006-02-11
    nisemono_san
    nisemono_san 2006/02/11
    駄文を救うことができない、許すことは出来ない、だけども愛するというところがポイントかも。
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