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藤原氏に関するnobunaga1534のブックマーク (22)

  • 立花宗茂 - Wikipedia

    永禄10年(1567年)8月18日[注釈 8]、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣の吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる[9][10]。幼名は千熊丸で[11]、後に弥七郎と改める。永禄12年(1569年)、父の鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、主君大友義統より編諱を賜り元服し高橋統虎(むねとら[注釈 9])と名乗る。 天正9年(1581年)、7月27日[注釈 10]、実父紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂の戦いとも)[12][13][14]で初陣を飾り[注釈 11]、150人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来た

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  • 藤原氏とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな

  • 三傳商事 - Wikipedia

    三傳商事株式会社(さんでんしょうじ-、英: SANDEN SHOJI Co.,Ltd.)は、秋田県秋田市に社にを置く総合商社である。三傳[注 1]という名称は、創業者の名前に由来する。秋田県域を主たる営業対象とする。 1847年、初代三浦傳六が茶紙荒物商を創業。初代は苗字帯刀を許された[1]。2代目傳六は、第四十八国立銀行や秋田商法会議所の設立に参画。さらに土崎の竹内長九郎と共に匿名組合を組織。米国スタンダードヴァキューム社(現:エクソンモービル)と提携を結んだ[1]。1917年合名会社三傳商店を設立。1934年三傳商事株式会社と改組した[2]。 第二次世界大戦後には4代目傳六[注 2]の経営指導の下、業容の拡大に取り組み、系列会社として設立した秋田国産自動車商会の後身である秋田日産自動車の隆盛や傘下企業も多数擁するまで成長した[2]。 1990年2月、4代目の死去後、三傳商事は大蔵官僚

  • 三井財閥 - Wikipedia

    『名所江戸百景』八番「する賀てふ」(歌川広重)それぞれ越後屋の暖簾をみることができる。2015年現在、通りの右側に三井館、左側に三越日店がある。手前左右の通りが中央通り。 三井越後屋京店記念庭園、高利が開いた京店跡 三井家の歴史は、太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという[1]。 早川隆によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。」という[2]。 三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋

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  • 中臣氏 - Wikipedia

    中臣氏(なかとみうじ)は、「中臣」を氏の名とする氏族。 古代の日において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。

  • 興福寺 - Wikipedia

    興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大山の寺院。山号はなし。尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。 歴史[編集] 創建[編集] 藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の

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  • 菊池氏 - Wikipedia

    菊池氏(きくち し)は、武家・華族だった日の氏族。平安時代より九州肥後国菊池郡(熊県菊池市)を拠とした豪族で南北朝時代には歴代当主が南朝方武将として活躍したが、南北朝合同後に衰退し、戦国時代に大友氏に滅ぼされた[3]。支流が米良氏として残り、江戸時代には交代寄合、明治維新後は菊池に復姓して華族の男爵家に列した[4]。 中関白藤原道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝承されるが、実際には刀伊の入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官で、その戦功により大宰少弐、対馬守となった藤原政則の子孫であると見られる[2][1]。11世紀後半から肥後国菊池郡(熊県菊池市)の在地領主として勢力を拡大[2]。平安時代末の治承・寿永の乱の頃の当主菊池隆直は、一国棟梁的存在として菊池権守と呼ばれ、鎌倉時代には鎌倉幕府御家人に列した。鎌倉中期の当主菊池武房は蒙古襲来時に奮戦した[2]。1333年には菊池武時が鎮西

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  • 大友氏 - Wikipedia

    初代当主・大友能直の時代に大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任された。しかし、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録は残されていない[6]。ただし、大分県豊後大野市大野町藤北に能直のものと伝えられる墓がある。九州に下ったのは能直の宰臣の古庄重吉(古庄重能)とされ、また、能直や親秀の庶子家もこの頃に豊後に入り土着している[6]。大友氏が豊後守護に補任されたのは、少弐氏や島津氏の場合と同じく、かつては平家の基盤であり、平家の家人だった武家の多い九州に対する源頼朝の東国御家人による抑えの役割があった。 第3代当主・頼泰の代に豊後に下向する[6]。文永の役を前にした異国警固のためとされるが、また大友氏の興隆は初代の能直の源頼朝との個人的な関係に基礎を置くため、源家滅亡後の北条氏の執権体制の東国では微妙な位置に置かれたことにもよる。頼康は元寇における戦いで武功を挙げて活躍し、

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  • 富樫氏 - Wikipedia

    代々加賀国に勢力を張り、加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる八介の一つの富樫介を称した一族である。家紋は天帝(北極星)と北斗七星への信仰(妙見信仰)から八曜紋を用いる。替紋として鹿角紋。 現在の野々市市に館を構えていた[注 1][注 2]。『野々市じょんから』は、富樫氏の治世を称えた17番まで歌詞のある民謡である。『義経記』、能の『安宅』、歌舞伎の『勧進帳』で有名な富樫に比定される富樫泰家は、この富樫氏の人物である。 富樫高家が、1335年(建武2年)、加賀国の守護職につくが、加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定であった。1387年(至徳4年)に富樫昌家が没すると、管領斯波義将が実弟の義種を加賀守護職に任じ、その没後はその息子の満種に継がせるなど30年近くにわたって富樫氏は守護職を奪われていた。だが、将軍足利義持の側近である富樫満成が1414年(応永21年)に斯波満種を失脚さ

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  • 小山氏 - Wikipedia

    流派は藤原秀郷流と称する。平安時代後期に武蔵国に領・太田郷(太田荘)を有した太田氏が下野国小山荘を領し、政光が1150年頃にはじめて小山に移住して小山氏を名乗った。その後に八田宗綱の娘を迎え頼朝の乳母となったことが結果的に鎌倉時代の小山氏隆盛の礎となった。 ただし秀郷の曾孫・兼光から小山政光までの系譜(秀郷流太田氏の系譜)は諸書で異同が多い。 『尊卑分脈』          兼光━頼行━太田行尊(行高)━行政━小山政光 なお『尊卑分脈』で武行は行尊の兄、行光は行政の弟とある。また行範(行則)は頼行の弟の名としてみえる。 『群書類従』「小山系図」   兼光━頼行━太田行尊━行政(宗行)━小山政光 『下野国誌』           兼光━頼行━太田行尊━宗行━行政━行光━小山政光 「白河結城系図」        兼光━頼行━太田行隆━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所および『続群書

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  • 上杉氏 - Wikipedia

    上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、武家・華族だった日の氏族。京都の地下家だったが鎌倉将軍宗尊親王の関東下向に供奉して武家になったとされ、室町時代には足利氏との血縁から関東管領を世襲して関東に広く勢力を広げた。やがて扇谷・宅間・犬懸・山内の4家に分かれ、扇谷と山内の上杉家が栄えたが、後北条氏との戦いで扇谷が滅ぼされ、山内当主上杉憲政も越後へ逃れ、長尾家出身の長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲った。謙信は越後を代表する戦国大名となった[1]。その養子の上杉景勝は会津120万石を領して豊臣政権で五大老になったが、関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗北し出羽国米沢藩30万石(直江兼続が51万石にまで上げた)に減転封され、江戸時代前期にさらに15万石に減封された。明治維新後は華族の伯爵家に列した[2]。 藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の下級貴族地下家の家柄であった。『続群書類

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  • 伊達氏 - Wikipedia

    伊達氏(だてし/いだてし)は、武家・華族だった日の氏族。鎌倉時代に朝宗が陸奥国伊達郡を与えられて伊達と称したのに始まる[4]。陸奥の有力豪族となり、戦国時代には戦国大名と化し、政宗の代に陸奥の南半分を征服したが、豊臣秀吉の天下統一で領国を削減された[4]。江戸時代には宗家が仙台藩藩主家、政宗の庶長子・秀宗の家系が宇和島藩藩主家となり、明治維新後には侯爵に叙された宇和島伊達家を筆頭に7家が華族に列した(侯爵家1家、伯爵家1家、子爵家1家、男爵家4家)[5]。 氏の由来である陸奥国伊達郡の「伊達」という地名は、もともと「いたて」「いたち」と呼ばれており、暦応2年[6](1339年)の文書には「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長がローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡や、ローマ市議会が常長に与えたローマ市公民権証書には「IDATE」とあり[7]、伊達氏自らはこの呼び方に従

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  • 益田氏 - Wikipedia

    益田七尾城 三宅御土居跡 須佐益田家邸宅 萩市須佐にある益田家墓所 益田藤兼坐像 益田元祥像(狩野松栄作) 益田氏(ますだし)は、武家・華族だった日の氏族。石見益田を拠としていた武家。姓は藤原氏といわれる。はじめ浜田の御神に居館を構えたことから御神氏(みかもとし)を称した。後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門須佐を領した。維新後華族に列し男爵に叙される。一族の通字は「兼」。家紋は「上り藤に久の字」。 初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれる。国兼の先祖は藤原実頼とも藤原真夏とも(この場合は藤原実綱の孫)される[2]。国兼の父は、有隆とも久通とも有定ともされる[3]。永久2年(1114年)、石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。その際、石見上府(浜田御神)に拠点を構え、御神氏を称した。系図によっ

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  • 大友義鎮 - Wikipedia

    大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。 父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など[注釈 1]。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉

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  • 斎藤道三 - Wikipedia

    斎藤 道三 / 斎藤 利政(さいとう どうさん / さいとう としまさ)は、戦国時代の美濃国の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主。美濃国守護・土岐氏の家臣から下克上を成し遂げ、戦国大名となったが、息子・義龍と対立して敗死した。 当初は長井新九郎規秀と名乗ったが、後に斎藤左近大夫利政と改名、さらに斎藤山城守入道道三と称した。六角義秀から偏諱を受け、秀龍と名乗ったとされることもあるが、六角義秀自体が架空の人物であり、近世の創作である[1]。 現在では、坂口安吾『信長』や司馬遼太郎『国盗り物語』といった小説の影響により、美濃の蝮という綽名でも知られるが、坂口安吾以前には道三をマムシと呼んだ例は確認できない[2]。 従来は、斎藤道三は浪人の身から一代で戦国大名までのし上がった人物とされてきた。その人物像は近世の軍記物や地誌で流布されたものである。『美濃国諸旧記』の伝える道三の前半生は以下のようなもので

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  • 伊達政宗 - Wikipedia

    永禄10年8月3日(1567年9月5日)[1]、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗(てるむね)と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は御幣(梵天丸)[6]。生誕地は通説では米沢城であるが館山城とする学説もある[7]。 天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。梵天丸はこの諱を固辞したが、父・輝宗より強いて命ぜられた。史料上にも正宗と書かれたものがいくつかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが[注 1]、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝

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  • 上杉謙信 - Wikipedia

    上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名[2]。 江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥しない[注釈 3]「義の武将」という印象が強い。一方で、現代では利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い[注釈 4](「後述」)。 春日山城 林泉寺 享禄3年(1530年)1月21日[4]、越後守護代・長尾為景[5](三条長尾家)の四男(または次男、三男とも[5])として、春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。主君・上杉定実から見て「の甥」であり、「娘婿(長尾晴景)の弟」にあたる。幼名の虎千代は、庚寅年生まれのために名づけられた[5][6][7]。 天文5年(1536年)8月、長尾為景は隠居し[8]、虎千代の兄・長尾晴景が家督

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  • 上杉憲政 - Wikipedia

    上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。室町幕府の関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死した。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。 生涯[編集] 家督相続[編集] 大永3年(1523年)、上杉憲房の子として生まれる。大永5年(1525年)に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である上杉憲寛(古河公方・足利高基の子、初名:足利晴直)が家督を継いで当主となった。家臣の古幡良家(畑将監)の娘を養女とする。 享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、先代実子の憲政を擁立する成田氏・安中氏・藤田氏・小

  • 藤原頼長 - Wikipedia

    藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。 通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った[1]。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。 幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛権中将。天承元年(1131年)に従三

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  • 藤原不比等 - Wikipedia

    藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。諡号は淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。正史以外で文忠公を記す史料もある。 草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。 藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤と記されている(#天智天皇の皇胤説)。名を史(ふひと)と記す文献もある(#姓名について)。 生涯[編集] 中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳の時、父・鎌足が死去。鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで14歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に

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