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ブックマーク / technique.hateblo.jp (5)

  • 当事者発言論としてのフランス現代思想 - Freezing Point

    最近ようやく気付くようになったが、 20世紀のフランス思想は、《当事者発言》の推奨と、そのための原理的整備を延々とやっていたのではないか? ざっと思いつくだけでも、 ドゥルーズの《受動性》。 すでに生きている関係性から当事者的に立ち上がる思考。 ドゥルーズがフーコーについて整理した、「他人に代わって語るのは下劣だ」 運動が全体化することに対する、運動当事者による分析としての「n−1」 ジャン・ウリ/ガタリの「agencement collectif d'énonciation」は、集団のさなかにあって影響を受けあう言表行為を、自分の巻き込まれた実情として主題化する(参照)。 ラカンのいう「メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」は、自分を棚上げにする思考を告発している*1。 しかし、ウリ/ガタリの強調する制度論的当事者化の観点からすると、ラカンの当事者化は

    当事者発言論としてのフランス現代思想 - Freezing Point
    noharra
    noharra 2010/07/18
    殺人者アブラハムの二律背反について延々と考察するデリダ「死を与える」も入るか
  • 「メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」 - Freezing Point

    無意識の影響を受けない発言や書き物はない、それゆえメタ言語は存在してはならない*1。 考えてみればこれは、当事者性を回避できる人などいない、ということ。 フロイト的な無意識論は、当事者性を独特の仕方で主題化している。 「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている(De Alio in oratione, tua res agitur.)」*2 これに対し、フロイト/ラカン派から出発したジャン・ウリやフェリックス・ガタリは、いわば当事者化の作法が違う。 ひとまず、「対象概念より、制度概念で当事者化を行なった」と言えると思う。 ウリ/ガタリには「制度論的対象」という表現もあるようだが*3、議論伝統の中で、《対象》概念と《制度》概念がどうリンクし立場を分けているかは、まとまって検討する必要を感じる。 転移の支援は、対象としての特異性をもたらすことによるのか、それとも日常性の組み

    「メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」 - Freezing Point
    noharra
    noharra 2010/07/11
    無意識の影響を受けない発言や書き物はない、それゆえメタ言語は存在してはならない。考えてみればこれは、当事者性を回避できる人などいない、ということ。
  • ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論 - Freezing Point

    「一般意志2.0」の議論では、「中間集団の否定」という文脈で、 ドゥルーズの「非コミュニケーション」が引用されています。*1 言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。 (ジル・ドゥルーズ 『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』 p.352、ネグりによるインタビュー) 一方ドゥルーズは、『アンチ・オイディプス』と同じ1972年に出た『精神分析と transversalité ―制度分析

    ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論 - Freezing Point
    noharra
    noharra 2009/12/23
    個人がどう構成されるかは周囲の人間関係の構成事情に影響されるし、個人の精神プロセスやその参加状態を改善しようと思ったら、他の人たちとの関係のあり方そのものを改善しなければどうにもならないということ
  • 2007-09-23

    ナルシシズムの発露とは別の、分析的な「人による議論」が必要だ。語ったり書いたりすること、それを事後的に分析することは、硬直したナルシシズムの制度から自由になることだし、そうでなければ言葉を尽くす意味がない。現状では、「語れば語るほど独りよがりになる」というタイプばかりに見える。 「状況には課題がある。ナルシシズムにかまけている場合ではない」という言い方は、それ自体が(課題の制度を硬直させたままの)ナルシシズムであり得る。自分の組み込まれた環境や、自分が生きている意識の制度への分析を欠いたまま、「やるべきこと」に没頭することでアリバイを得る。一つの分析スタイルは、それ自体が硬直した制度であり得る。その分析遂行の動機付けは、あんがいナルシシズムや私利私欲でしかない。 ナルシシズムしか許されない場は当に苦しい。その苦しさを単に人のせいにしたり、「やるべきことをやれ」とのみ言うのではなく、無

    2007-09-23
    noharra
    noharra 2007/09/28
    必要なのは、物語のナルシシズムではなくて分析だ。「大きな物語ではなくて小さな物語しかない」というのは、ナルシシズムの器の変遷を語っている。
  • Freezing Point - 「宮台真司ロングインタビューvol.2 」

    宮台: ギデンズの言葉を使えば「再帰化ツール」。 自分たちは何者で何をしているのかという自意識を与えること。 影響力のある語り手は、その時代の「ナルシシズムの提供者」なのだと思う。 宮台真司氏は、「状況と実存の関係」の提示者として、度はずれたナルシシズムの提供者になっている。 彼のメッセージは、自分や他人を動機づけるのに、徹頭徹尾モチーフが《自意識》にある。 【ex.「田吾作」「まったり」「はしご外し」「格好いい」etc...】 「ニヤッと嗤う(自分には分かっているが、あなたにはそうではないんですね)」。 相互承認は、どこまでも自意識的に行なわれる。 自意識的分析の共有が「エリート意識の共有」で、しかしナルシシズムに奉仕する分析はどこを目指しているか。 状況に影響力を行使するのに自意識というファクターが重要であるのはわかるのだが、動機づけのされ方がどこか違う気がしている。 ただ逆に言うと、

    Freezing Point - 「宮台真司ロングインタビューvol.2 」
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