最近ようやく気付くようになったが、 20世紀のフランス思想は、《当事者発言》の推奨と、そのための原理的整備を延々とやっていたのではないか? ざっと思いつくだけでも、 ドゥルーズの《受動性》。 すでに生きている関係性から当事者的に立ち上がる思考。 ドゥルーズがフーコーについて整理した、「他人に代わって語るのは下劣だ」 運動が全体化することに対する、運動当事者による分析としての「n−1」 ジャン・ウリ/ガタリの「agencement collectif d'énonciation」は、集団のさなかにあって影響を受けあう言表行為を、自分の巻き込まれた実情として主題化する(参照)。 ラカンのいう「メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」は、自分を棚上げにする思考を告発している*1。 しかし、ウリ/ガタリの強調する制度論的当事者化の観点からすると、ラカンの当事者化は