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笑い・をかし・オモロに関するnoitseuQのブックマーク (3)

  • アーキテクチャを作り出す松本人志とそれに抗う中田敦彦──それぞれが信じるお笑い論|山門文治(やまかどぶんじ)|コトバテラス

    この記事では、一連の騒動についてまとめていますが、まとめよりもこれを受けてぼくがどんなことを感じたか、という趣旨の方が強い内容となっております。 また、ぼくは松人志よりも中田敦彦派である。 そのため、そういう偏った人物が書いている辺境な意見だと思った上で読んでいただきたい。 今回のテーマは、『アーキテクチャを作り出す松人志とそれに抗う中田敦彦──それぞれが信じるお笑い論』 この問題は一人の芸人の謀反を起こしたという角度で見るのではなく、 もっと構造的な問題があって、各々の立場に立つことでより立体的に楽しめるはずだ。 中田敦彦はめずらしい芸人だ。 なぜなら、松人志に反抗的だからだ。 他にそんな芸人を見たことがない。 噛み付くって話なら、ウーマンラッシュアワーの村大輔がいたが、彼の噛みつきも予定調和の噛みつきであり、構造そのものの否定にはならない。 ナイツの塙やかもめんたるのう大は、お

    アーキテクチャを作り出す松本人志とそれに抗う中田敦彦──それぞれが信じるお笑い論|山門文治(やまかどぶんじ)|コトバテラス
    noitseuQ
    noitseuQ 2023/08/11
    中田敦彦と西野亮廣はいまだに芸人を名乗り続けている。なぜか、彼らが挑んでいるからだ。笑いの定義の多義化というものに。こういうのも笑いだろ?という反骨精神からくる多義化の試みなのだ。
  • 「笑いについて」──東ブクロ少年の肩を持つ29歳現代文講師|山門文治(やまかどぶんじ)|コトバテラス

    このタイトルは壮大だ。 さらば青春の光として活躍する東ブクロが高校3年生のころに文集として発表したペラ1の金字塔である。 論では、東ブクロ少年が書いたお笑い論に触発された29歳が、独自の視点のお笑い論を展開する目的で書かれたものだ。 したがって、東ブクロが放つ過剰な痛々しさと背伸びした文体への挑戦が、この論でもふんだんに盛り込まれることになるだろう。 東ブクロ少年は、お笑いには数種類あるという分類を試みていた。 この少年の慧眼は侮れない。 ①面白くて笑う者②同調して笑う者③嘲笑として嗤う者④ただの笑い上戸 このような分類を付して、「笑い」と「嗤い」の緻密な定義分けが展開されている。 そして、議論は端折られて、あの余りにも有名な「だが、変人で結構」に接続するのである。 おそらく、ここには字数制限があったはずなので、このような中途半端な結論になってしまったのだと予測される。 実際に東ブクロ少

    「笑いについて」──東ブクロ少年の肩を持つ29歳現代文講師|山門文治(やまかどぶんじ)|コトバテラス
    noitseuQ
    noitseuQ 2023/08/11
    彼らの挑戦を見ていると、 お笑いはタブーを擬似体験し笑いが出力されるというアートなのだ、ということが身に染みてよくわかる。
  • 「あはれ」は一体感、「をかし」は分離感ーー古語妄言|悟塔雛樹

    「もののあはれ」(「あはれ」)を顕著に示したのが『源氏物語』、「をかし」の理念に基づいて記されたのが『枕草子』だとよく対比される。このふたつの違いを明示するとすれば、どのような説明が考えられるだろうか。ひとつの提案として前者を「一体感の美意識」、後者を「分離感の美意識」と考えてみてはどうだろう。以下、『枕草子』をテキストに考えたい。(「あはれ」を「しみじみとした趣のある様子」、「をかし」を「対象を興ありとする感情」と説明するだけでは、どうもわかりにくい。) まず「あはれ」から。人間は必ず母親から生まれ落ち、母子一体感を支えに育つ。この「一体感」への懐かしみが「あはれ」ではないか。母子一体感を求める自分自身の心を対象に重ね合わせたときに、「あはれ」と感じるのであろう。『枕草子』を検討する限り、「あはれ」の表現が用いられているのは例えば「ねぐらへ帰ろうとする烏」「仲間を恋しがる子供っぽい山鳥」

    「あはれ」は一体感、「をかし」は分離感ーー古語妄言|悟塔雛樹
    noitseuQ
    noitseuQ 2023/08/01
    母子一体感を求める自分自身の心を対象に重ね合わせたときに、「あはれ」と感じるのであろう。これに対して「をかし」は、…「対象との距離感」であり、すなわち「対象との分離感」である。要するに客観的なのだ。
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