平安時代前期の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓と推定されながら、地形の変化によって正確な場所が不明になっていた「西野山古墓」(京都市山科区西野山)の位置を、歴史考古学研究家の鳥居治夫さん=同区=が特定し、学術誌に発表した。足かけ40年にわたる研究で、専門家は「検討に値する内容」と評価している。 特定した古墓の位置は、山科区西野山岩ケ谷町の道路。西野山古墓は大正期に京都帝国大が調査、金装太刀や鏡(いずれも国宝)が出土した。鳥居さんは、1973年、古代土地区画「条里」を現代の地図に当てはめて田村麻呂の埋葬地を記した文献から、「墓は西野山古墓」とする論文を発表した。その後の研究もあり、埋葬地として有力視されている。 鳥居さんは昭和30年代後半に大正期の調査を知る人の案内で古墓を訪れた。ところが、その後周辺で清水焼団地が造成されて地形が変わり、古墓の位置は長らく不明になっ