明治會堂(めいじかいどう)は、福澤諭吉と慶應義塾(現・慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築された政談演説公会堂[1]。 明治17年(1884年)に「厚生館(こうせいかん)」へと名称が変わり、「木挽町厚生館」として知られた[1]。中央区銀座三丁目十四番に、中央区教育委員会による「明治会堂跡」の案内板(平成24年3月)がたてられている。 慶應義塾は明治8年(1875年)に既に三田演説館を設けて「三田演説会」を頻繁に開催し、大井憲太郎や植木枝盛といった民権派の壮士が数多くここから輩出されていたが[1]、慶應義塾外においても演説会場の必要性を感じた福澤諭吉は、明治13年(1880年)6月に「明治会堂建築相談会」を発足させて門下生の馬場辰猪、森下岩楠、肥田昭作、朝吹英二、渡辺恒吉らに会堂建築計画を相談[2]。 創立者同志の金子堅太郎が、懇意にしていた前東京府知事・由利公正の洋式邸宅が空家になっ
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