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ブックマーク / michiaki.hatenablog.com (29)

  • なぜ人は音楽に心を動かされるのか? - すべての夢のたび。

    最初にイイワケをしておきますが、このエントリの内容は無保証です。その上、結論は身も蓋もないです。 なぜ人は、音楽を聞いて心が動くのか。それは以前からぼくの関心事項でした。映画小説で感動するのはわかります。(人は基的に)甘いものが好きで苦いものを好まないのか、その理由もわかる。暑い寒いとか疲れた気分悪いとか、そういう状況を嫌うのも、わかる。 音楽で心が動くと言ってもいろいろあって、たとえば歌い手が歌に込めた感情がダイレクトに伝わってくるとか、歌詞から情景が目に浮かぶとか、その歌が流行っていたときの自分を思い出してしまうとか、そういうのなら、わかるんです。そうではなく、ぼくがわからなかったのは、音楽の最もプリミティブな形態、コードになぜメジャーやらマイナーやらがあって、明るく晴れやかな印象や、暗く寂しげな印象を心に呼び起こせるのか、ただの音と音の組み合わせになんでそんな技が可能なのか、それ

    なぜ人は音楽に心を動かされるのか? - すべての夢のたび。
  • 「振り込めない詐欺」の解消へ向けて - すべての夢のたび。

    今朝方インターネット上で、なかなかに興味深いできごとが発生していたようです。当たり前だけどー、寝てた。べっ別に、歴史的イベントに参加出来なくって残念ってわけじゃないんだからね! 動画で中継できるUSTREAMというサービスがあるんですが、今(早朝4時半くらい)、okadaさんという方が自室からDJプレイを中継しています。 その同時視聴者数が、とんでもないことに! 平日の4時半に、2200人近くの人が、彼の素晴らしいプレイを共有しているんです。 最終的には2300人近い人がokadaさんのプレイを見ていたようです。 で、これで歴史が変わるか?っていうと、ぼくは変わらないと思うんですね。今回のこれ自体は歴史に残るものと思うけれど、一回性のものだと思う。理由は簡単で、DJの人にお金を払う仕組みが存在しないからです。そりゃ、反応やら、リスペクトやらは、届くでしょうけれど、それじゃべれないですから

    「振り込めない詐欺」の解消へ向けて - すべての夢のたび。
  • 『脳の中の「わたし」』 - すべての夢のたび。

    脳の中の「わたし」 作者: 坂井克之,榎俊二出版社/メーカー: 講談社発売日: 2009/11/21メディア: 単行購入: 4人 クリック: 42回この商品を含むブログ (7件) を見る 買っていたのをすっかり忘れており、今日読みました。良いだったので紹介します。ぼくが時々書く、脳がどうしたとか"わたし"の正体は何かとか自由意志はあるのかとか、その手の話が好きな人には特に強くお薦めします。 一般の人の"わたし"ついての最も大きな誤解は、"わたし"は「原因」だと考えていることです。いや、一般人だけではないですね。おそらく脳科学者を除く、(他の分野の科学者や哲学者も含んだ)ほとんど全ての人たちがそう考えている。しかし、脳科学者はそれが正しくないということを知っています。"わたし"はある意味で「結果」なのです。 それはどういうことか? "わたし"が何かをしようと意志し、その結果行動が起こる

    『脳の中の「わたし」』 - すべての夢のたび。
  • どうでもいい人 - すべての夢のたび。

    なんの事件だったか忘れたけど、最高裁判事が「被告は死刑、反社会的で更正の余地無し」みたいなこと言ってたのを見て、ぼくは、ぼくも反社会的で更正の余地無しなんだけどなぁ、と思っていた。反社会的といっても、社会に対し積極的な破壊活動をするわけではなく、もっと消極的なものだ。ひとことで言えば、社会への非協力的な姿勢("反"社会的ってか"非"社会的、か)。件の被告との差は、法に反するようなことはしていないという、ただそれだけ。 基、世の中どうなってもいいや、と思っている。ぼくが死ぬまで(それは5年先か10年か、最長でも20年内のことだろう←そのくらいで自ら死んでやろうと思っているので)保ってくれればいい、と思う。あとのことはしらない(悪くなれとも良くなれとも思わず、ただ関心がない)。このあと誰かと暮らす気もないし子供を作る気もない。ひとりで出かけひとりで遊び、くだらないニュースに笑い、自殺者増加の

    どうでもいい人 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/11/28
  • アナザー池田のアナザー進化論 - すべての夢のたび。

    「池田先生」と"この界隈"で誰かが口にしたとき、それはいったい「宗教のほう」なのか「経済のほう」なのか?ということが問題になるわけですけれども、ぼくとしてはそこにもうひとり、「生物の池田先生」も加えていただきたいと考えている次第です。いろんな意味で負けず劣らずだと思う。 さよならダーウィニズム (講談社選書メチエ) 作者: 池田清彦出版社/メーカー: 講談社発売日: 1997/12/10メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 2人 クリック: 23回この商品を含むブログ (18件) を見る 大胆な書名のこの、一回読んだだけではその「構造主義進化論」(レヴィ=ストロースのご冥福を)がどういうものなのかよく理解できなかったので、いずれ再読せねばと思っているわけですが、冒頭第一章で挙げられていた「ネオダーウィニズムに対する反証」が、進化論についてちょっと考えてみる時になかなか興味深い事例と思

    アナザー池田のアナザー進化論 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/11/05
    DNAが何なのか、解明されているのかどうなのか全然知らないが、氏の説は疑問だらけ。
  • 神保町→秋葉日記 - すべての夢のたび。

    なんとなく地元の洋屋に入ってみた。駅までの通りにあるけれど5年以上スルーしてた店。いわゆる時間止まってる系。でも地元の人でそこそこ賑わっている。南沙織が流れている。ミックスフライ定を頼むと、エビとミートボールとクリームコロッケ+サラダの皿が出てきた。ポタージュときゅうり(ピクルスではない)付き。ふつうに美味しかった。なくならないうちにまた行く。 神保町へ行くと古まつりの真っ最中だった。おじさん度高し。歩道を通るのもままならない。ゆっくり見れたら面白いのかも……と思いつついつも素通りだ。これだけのために時間を取って行かないと無理だろう。を買ってコーヒー飲みつつ読む。 秋葉。またMagic Mouseを触ってみる。面白いけど、必要なのか?と言われるとやっぱり微妙だ。これでしかできない何か、というのも別にないし。しばらく様子見にしたいと思う。でもきっと行くたび触ってしまうんだろうな。手に

    神保町→秋葉日記 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/11/03
    『七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで』デボラウェアリング, 匝瑳玲子
  • 我思う我書く、の2 - すべての夢のたび。

    昨日の続き。 デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。なんでそれをぼくが知っているかというと、彼はそのことを『方法序説』というに著して世に問うたからです。彼は自分が考えて考えて辿りついたアイデアを、他人に伝えようとしたのです。それはなぜか? 黙って一人胸の内に秘めておくこともできたのに? ぼくは子供の頃、自分の行動範囲しか世界はないのではないか、というような妄想をしていたことがありました。なにかの理由があってここに連れてこられてきて、ずっと監視されていて、ぼくが行く可能性のあるところはしっかりと作られているけれど、例えば入る用事もないようなビルなんかは外側だけはちゃんと作ってるけど中身は張りぼて、更に、行く必要もないような遠いところなどは実際には存在しないのではないか? そのような妄想を、どういった話の経緯でそこに辿りついたのかは忘れましたが、ある時、知人も同じように昔持っていたこ

    我思う我書く、の2 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/29
    "もし独我論があり得るのなら、それを"他人"が語っているという時点で既におかしいのです"
  • 我思う我書く - すべての夢のたび。

    「我思うゆえに我あり」とデカルトが言ったことについて、ちょっといろいろ考えていました。 全てを疑うことが可能だとしても、それを疑う"我"が存在することだけは絶対に疑い得ない、とデカルトは言いました(多分)。では"我"の存在が他の全てのものごとの起点になるのだろうか、と考えると、それは違うだろう、と思うのです。 ことばだけを見ると、「我思うゆえに我あり」は正しいことを言っているようにぼくには感じられます。しかし、そもそも"我"とはなんなのでしょうか。"我"という概念がぼくの頭のなかにあらかじめ存在していたからこそ、ぼくはデカルトのことばを理解できたわけです。 「"我"とは○○のことである」といったように、その概念の説明には別の言葉が必要になります。知らない言葉は辞書を引くことにしても、どこかで定義はループになってしまうので、輪の外側に足場がなくてはいけない。結局は、ぼくが"辞書など引かないで

    我思う我書く - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/26
    "デカルトのことばは、「世界に先立ちその始まりを告げるもの」ではなく、ただ「世界の中で確実な足場にできそうなもの」を指し示しているに過ぎない"
  • ともだち少ない自慢 - すべての夢のたび。

    釈放後、初めて手にした携帯電話には家族や支援者ら20件を超えるアドレスを登録、親族とも連絡を取り合っている。 20件て、ぼくより多くない?と思ってiPhoneの連絡先に登録してある名前を数えたら15件でした。以下その内訳。 仕事関係 自社の事務所 直属の部長 営業部長 プロジェクトのメンバー1 プロジェクトのメンバー2 プロジェクトのメンバー3 顧客先の部長 知人 知人1 知人2 知人3 かみしろさん(@y_kamishiro) 身内 実家 奥さん その他 美容院 岩盤浴場 他に携帯は持ってませんのでほんとにこれだけです。 仕事関係は、基掛かってくるばかりで、着信拒否しないように登録してあるだけです。プロジェクトのメンバーは3人とも他社です。 知人1〜3は皆ネトゲで知り合った女性です。そのうち電話番号を知っている/会ったことがあるのは1人だけ(笑)で、2人はメールアドレスのみです。1人は

    ともだち少ない自慢 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/26
    "まぁ意図的に減らしてきたんですけどね。リアルのつながりは少ない方が楽です"
  • せっかく人間なのに - すべての夢のたび。

    世の中に数多ある「なぜ、そうなのか」という問い。哲学では、結局のところこれらの問いは次の3つに集約されると言われています。 自分とはなにか 世界とはなにか 神とはなにか 2と3は似たようなものかもしれないし、世界が自分の鋳型、凸と凹のようなものと考えれば1と2も同じかも知れません。 ぼくは子供のころから「なぜ」を考えるのが好きで、それは(ご存知の通り?)今に至っても変わりません。ただ違うのは、やっぱり、問いの行き着く先が見えてきた、というところですね。 例えばオーディオが趣味なら、いずれは、スピーカーこそが最後に音質を左右するものだ、というところに行き着くのではないでしょうか。音の出口、結局そこを良くしないと、途中でいくら頑張っても駄目なわけです。 同じように、いろいろ「なぜ」という問いを考えていくとき、ベースになるのは人間です。結局のところわたしたちが人間であり、人間でしかないということ

    せっかく人間なのに - すべての夢のたび。
  • 猫と猿と人 - すべての夢のたび。

    文体(というか文末)が苦手なので、地下さんのエントリはブクマされてても普段は読まないのですが、今回関心ある分野だったのでがんばって読んでみました。 「人間とは何か」京大霊長類研シンポジウムレポート(前) 「ありもしないものを見る」のが人間@京大霊長類研シンポレポ(後) 前編と、後編の半分くらいまではレポートです。うちの日記を読んでるような方ならきっと面白いと思うのでお薦めいたします(でも「あわせて読みたい」に時々出てくるくらいだから、言われなくてももう読んでるかも?)。 後編にちょっと出てくる「呪術」というキーワードがよくわからなかった。のでTwitterに投げてみた。 地下さんのいう呪術ってなんだろ。物語とは違うのか。まあいいか。 さっそくcrow_henmiさんからリプライをいただく。いつもお世話になっております。 雑に言えば物語に類似してます。価値合理的な方向性を指し示す「価値」

    猫と猿と人 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/20
    "エピソード記憶を行うために物語は作られる。そして物語を作るためには俯瞰的な位置からの視点が必要、ということで、これが自己意識の発生に繫がったのではないだろうか"
  • ある日、世界が腑に落ちる - すべての夢のたび。

    記憶 脳は「忘れる」ほど幸福になれる! 作者: 前野隆司出版社/メーカー: ビジネス社発売日: 2009/03/07メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 1人 クリック: 20回この商品を含むブログ (5件) を見る 前野隆司さんのは、これ以前の3冊とも持っていますのでファンと言ってもいいかも(「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説」「錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった」「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史」)。最後のはまだ読みかけですが。今回のこれは、この3冊よりは一般向けに書かれているようで、脳の構造やら専門用語やらはあまりでてきません。 書のサブタイトルは"脳は「忘れる」ほど幸福になれる!"となっています。ぼく自身、記憶力が悪いことは自覚しており、よくあるなぐさめ「忘れてしまうようなことは大したこと

    ある日、世界が腑に落ちる - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/11
    "「世界全体のつながりが腑に落ちた感覚」...それから、いろんなことが割とどうでもよくなった(笑)。どんなことがあっても別になんとかなる。どんなことがあっても別にどうでもいい"
  • なぜころなう - すべての夢のたび。

    crow_henmiさんがTwitterで「なぜころ」していたのを見かけました。 「なぜ人を殺してはいけないのか」についてゲーム理論の均衡概念を持ち出す説得方法はそんなに悪くないのだけど、例外社会においてはその論理が通用しない例外者がいて、そういう人たちには通用しない。彼らは社会に生きることを諦め、社会倫理で包摂できない存在と化しているからだ。 「なぜ人を殺してはいけないのか」をくそまじめに追求するとどうしてもそのような「例外」に突き当たる。そこに対して「それでもなお人を殺してはいけないのだ」と説得しうる理路というものを考えつめることができてこそ、この問いは陳腐でなくなる、とか。 逆に、社会倫理に包摂可能な相手であれば「人を殺してはだめだからだめなんだ」というトートロジーを力で強制することすら問題ではないといえる。「社会が許さない」「自分が損をする」ということの表象としての頑固オヤジパンチ

    なぜころなう - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/11
    "「この社会においては人は殺すことができるが,その結果としておそらくそれなりの報いを受けることになる」ということだけが真実で,「人を殺してはいけない」というのは,単に"社会からの(自分自身に都合のいい)お薦め"
  • 進化についての不思議なところ その2 - すべての夢のたび。

    ダーウィンの映画アメリカで上映見送りになったことが話題になりました。この件に関する批判で、連中はいったいどうやって科学と宗教を頭の中で両立させてんだ、みたいなものがありましたが、日人だって初詣行ったりお祓いしたり墓参りしたりするわけで、アメリカ人ばかりが変ということもないように思います(それとは違う、という人は、これらが余りにも普通に生活に溶け込んでしまっているため、どこがおかしいのかうまく気づけないのでしょう)。 さて、その2です。その1はこちら。シリーズなんですか? わかりません。 自然選択説 - Wikipedia 生物の進化を要約すると次の通りである: ・生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。 1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異) 2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(

    進化についての不思議なところ その2 - すべての夢のたび。
  • また自由意志についての斯く斯く然々 - すべての夢のたび。

    自由意志に関して皆様にお知らせしておきたい事実がひとつございます。というのは、ぼくはここ最近で脳や意識に関するをたぶん20冊くらい読んでいるのですが(まぁ全部一般書ですけどね)、その著者やの中でインタビューされてる科学者などで、自由意志の存在を認めている人は「ほぼいない」ということです。「全くありえない」から「信じ難いがそう考えざるを得ない」まで濃度はさまざまですが、素直に「人間は自分が意志した通りの自由な行動ができる」と考えている人はいなさそうなのです。ない、という合意ができつつある。 これはどういうことかというと、脳や意識の研究に携わる科学者たちは、いままさに"地動説"が正しいと気付いてしまったのだ、ということです。しかしまぁ世間の人は、地球は宇宙の中心だと信じきっており、そんなことはあまりにも当然すぎるのでそもそも話題に上りもしない、と、そんな状況なのではないでしょうか。 「自由

    また自由意志についての斯く斯く然々 - すべての夢のたび。
  • ハード・プロブレムのイージーな片づけかた - すべての夢のたび。

    「ハード・プロブレム」とは、デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「物質としての脳からなぜ、またどのようにして主観的な意識体験が生まれるのか」(ウィキペディアより)という問題です。 人の頭のなかで百億単位のニューロンにより行われている情報のやりとり。これらは完全に物理的なもので、電気的/化学的な記述が可能です。そこからどうやって、明るいだとか、青いだとか、楽しいだとか、あるいは、自分が存在する感じだとか、そういった私たちの「ありありとした感覚」が生み出されてくるのか? 容易には埋められそうにないこのギャップを、チャーマーズはハード・プロブレムと呼んだわけです。 これに絡んで、有名ですが「哲学的ゾンビ」という概念もあります。私たち人間とまったく同じように振る舞うけれど、機械のように内面的な体験(意識)を持っていない存在と定義されます。そういったものが可能か?という話です。ハード・プロブレムの存

    ハード・プロブレムのイージーな片づけかた - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/09/16
    宮台氏の言うところのポストモダン、底が抜けた状態と絡めて考えたい。
  • 大人は選挙に行く - すべての夢のたび。

    昨日の記事はさておいて、今日もちょっとだけ選挙について書いてみる。 「おれの1票マジ意味ねえなー!」って感じたことがある人は多いと思う。けれどもし、自分の1票が選挙の行く末を左右するようなモノなら、当然、その結果の責任も取らされることになる。自分が投票した人間が当選したってそこがスタートなだけで、その後世の中が良くなるか悪くなるかは誰にもわからないんだし。 その覚悟があるんなら、はじめから議員やればいいんじゃない?って考えもある。それともなにか、自分が投票した候補はすべからく当選すべし、そして後は椅子に座って自動的に世界が良くなっていくのを眺めていたいんだ……みたいな感覚なのかなぁ。 ぼくの1票は選挙の結果にまったく関わらない。しかし、現に、選挙で票を集め当選する人は、いる。このギャップを埋めるにはどう考えたらいいんだろうか? 投票結果を絶対に左右したりはしない、吹けば飛ぶような軽い1票を

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    npidea 2009/09/01
    "ほんとのところぼくが投票に行くのは、お手軽に社会参加してる気分が味わえるのと、レース見るなら馬券買った方が絶対盛り上がるよね、っていう、せいぜいそのへんじゃないかと思う。"
  • 努力しなければ手に入らないものなんて、大した価値はない。 - すべての夢のたび。

    最近そういうことを考えています。たぶん、ふつうに思われてるのの逆が真だろうと。だってそうじゃないと、ほとんどの人は、大切なものが何かもわからないまま死んでいくということになりますからね。それはないだろうなぁって。 はるか昔から現在までずっと語り継がれてきたように、いつだって、冒険の果て、お話の最後に手に入るのは、なんだかつまんないものだったりするわけです。そのことが繰り返し形を変えて伝えられる。今の時代でも、いわゆる成功者にインタビューして得られるのは、なんだそんなことか、って話だったりするわけじゃないですか。みな、おなじようなことを言う。 苦労して苦労して、その挙げ句に得られるのは、ありきたりなこと。なら、最初からそれを望めばいいんじゃない、と思うんだけど、物にはもっとありがたみがあるはずとか、そんな簡単に手に入るわけがないとか、苦労なしに得たものには価値がないとか、そういう思い込みが

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    npidea 2009/08/06
    ブコメも参考に。
  • 60歳になったら、○人と呼ぼう。 - すべての夢のたび。

    20歳になったら成人と呼ばれて選挙権が与えられるように、60歳になったら○人と呼ぶことにして「死ぬ権利」を与えればいいと思う。通常の自殺とは違う扱いにして、国の公認の施設で塩化カリウムの静脈注射を行う。スイッチは自分で押す。葬式代程度の額が国から支給される。……という「政策」はどうでしょうか? つまりは「姥捨て」をスマートにやろうという話です。ただし、脳死臓器移植とおんなじで、「義務」ではなく「権利」。別に、60過ぎても仕事があるとかやりたいことがあるとか、そういう人たちに強制するようなものではない。でも、定年過ぎて特にやることもないとか、もうここを退くべきだとか、そう考える人たちも一定量はいると思うのですよ。 それにしても、自死する直接の理由とは要するに「病苦」や「老醜」のおぞましさだ。我々はふだん「なぜ死んだのだ」と深刻に複雑に考えようとするが、それはこの理由があまりに単純で救いがない

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    npidea 2009/08/02
    政策に賛成。
  • 世界はどういう理由でここから開けているのか?(極個人的な疑問) - すべての夢のたび。

    永井均さんの『私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)』を今日、読み返していました。ま、その途中で"破"を見てしまったので中断してますけどね。 このには「開闢の哲学」という副題がついています。ここで言われている開闢とは「世界は"わたし"から開けている」というような意味と理解しています。世界にはたくさんの人間がいるのに、そのうちのたったひとり、自分だけが、他とはちがった在り方をしている。自分の目から顔を見ることができず、首の下に体、そして手足をぶらさげて歩いている奇妙な人間はわたしひとりだけです。なぜほかの、あの人やあの人ではなく、それは"こいつ"だったのか? どうやってこいつが選ばれたのか? 開闢の問いとは、そういうものだと思います。 ぼくは、ここには、けっこうな誤解があるんじゃないかなーと思ってます。つまり「自我っていうものは、人間ひとりにいっこある」というわけではないかもしれ

    世界はどういう理由でここから開けているのか?(極個人的な疑問) - すべての夢のたび。