逆シャアなら行かねばなるまい、ということで行ってきました。 藤津さんは私とは違って、「作品そのもの」を最重要視した見方をするので、 それが私にとっては新しい発見というか、私の「作り手と作品の関係性」を重視した見方からは 出てこない考え方が多くて面白いです。 さて、まあその新しい発見は後で何か書くとして、 藤津亮太さんが「これはいまだに謎なんです」と言っていた 「なぜサイコフレームの光はチェーンの死から始まるのか」という部分について、 ちょっと考えてみる。 私としてはあれは「生贄」かな、と思っています。 サイコフレームの光というのは、人類の革新の光であって、 そのためには生贄が必要なのです。 花が実を結ぶために散るように、何かを成し遂げるには犠牲は必要です。 シャアというのは、それがわかっていて、 世紀の大虐殺者になろうとも人類の革新のために色々な犠牲を出しているわけです。 それに対してアム