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ブックマーク / chspmedia.com (9)

  • 再開発前にあった地図看板/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    再開発区域にまだ金網で囲まれていた時に、見つけた地図です。残念ながら北口大通りの地図は見つかりませんでしたが、一部再開発地域を含んだものもありました。 ここに掲載しました看板は、一番上は国分寺駅北口の西側にある「西通り商店会」バス車庫から左上が「町二丁目北交差点」となっています。 上から二枚目は、「町二丁目交差点」から「国分寺町一丁目」を水平にした地図です。上が北になっていて下にJR中央線の線路が描かれています。 上から三枚目の写真は、下の辺が町二丁目北交差点から多二丁目の区域が描かれています。中央には国分寺市立第二中学校と国分寺市立第七小学校が描かれています。 国分寺駅北口 西エリア地図   トップへ 下のブリキの看板地図は、再開発前の国分寺駅北口の再開発区域内にあった手描きの地図です。北が左方向でこのエリアは国分寺駅舎北側の西武多摩湖線の連絡通路〜西武バスの国分寺駅北入口のバ

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    o9875 2019/04/24
  • 再開発で消えた駅前の景色/CHSいろいろサイト

    上のイラストは、2013年の再開発開始前の北口周辺のマップです。この頃は所々の土地買収が始まるものの用地買収はは未だ途中の段階です。国分寺駅北口正面のパチンコ店の左脇の路地の左側と、一時駐輪場で利用されていた場所が空いています。また、北口大通り側では、トップを切って矢島商店(八百よっちゃん)が用地を売却しましたがその後数十年、様々な環境・経済の変化によって停滞してしまいました。そのなかでも再開発用地の中心にあったのが、国分寺百貨店(後のバザールK)です。昭和30年代創業の歴史あるお店も、老朽化でバザールKとして形を変えていました。しかし再開発の用地として姿を消してしまいました。 暫くして、平成25年になり鉄筋コンクリートの建物の北田ビル、三和銀行(多公民館図書館分室)、板谷ビル、と駅前の商店(松田屋、多根果実店、保科理容室、平禄寿司、郊外土地)が残っていましたが、移転や廃業をして駅前から

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    o9875 2019/04/24
  • 本町二丁目交差点周辺/国分寺駅北口/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    国分寺北口のメインストリートである町二丁目交差点を東側から見た景色です。この道は、府中へ向かう国分寺街道へ続く当時のメインストリートです。駅前からは京王バス立川バスなどの路線がありました。この後京王バスでは交通事故があり、のちに開設された国分寺駅南口からの発着へと変わりました。 この写真は同じく田中丈夫氏が写した昭和35年頃の写真です。正面右が当時の三菱銀行です。当時は自家用車は高額所得者のもので、交通量が少な買ったため交差点に信号機や横断歩道もありませんでした。よく見ると道の両脇にはドブ板が並んで見えます。 道路には車の通行が少なく道が広々としていました。右側の「宮寺うどん店」の前にはミゼットが停まっていて、奥には普通貨物車の「トヨエース」などの配達用のトラックが見えます。

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    o9875 2019/04/24
  • 国分寺駅北口 大学通り東栄会通り/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    大学通りの由来 トップへ 国分寺駅北口の東に伸びる商店会は、「東栄会」という名称でこの通りは「大学通り」と呼ばれていました。昭和31年(1956)に国分寺駅に南口が開設されるまで、国分寺駅は北口しかなく、東側にある「東京経済大学」に向かうには、この東栄会の東へ伸びる道を通り、中央線ガードを通っていくルートしかありませんでした。これが「大学通り」の由縁となっています。人によっては「大学通り東栄会」と呼んでいた人もいました。 国分寺駅は明治22年(1889)に甲武鉄道の新宿〜立川間の開業とともに国分寺駅は開設されました。この頃から駅前の飲店・商店は拡大していきました。当時国分寺町の中で最も繁栄していた商店街でした。この東栄会は昭和24年に発足した国分寺で一番古い商店会となっています。この商店会の中で最も古いと言われているのが、「呉服の機万(はたまん)」で甲武鉄道国分寺駅開設の2年後の明治24

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    o9875 2019/04/24
  • 星野模型店が閉店/姿を消すお店/CHSいろいろサイト

    IROIROサイトのトップページは、修理(自転車あり)・アウトドア(野鳥)・青梅や奥多摩の記事など山盛り掲載してあります!上のロゴをクリック! プラモデル関連: 35年以上前のプラモデルのレストア:TAMIYA HONDA CB750 Four 町の老舗模型店 トップへ 私が昭和30年代の子供の頃、駅前大通りの町二丁目と札ノ丘(町のたましん辺り)には、狭い間口の駄菓子屋があり、お正月に親から貰った「お年玉」を手に握って走って行ったのがこの星野模型店の向かいのお店でした。その頃はおもちゃといえば左右を合わせ爪をおって止めてある「ブリキのおもちゃ」でした。この頃にはまだ精巧な「プラモデル」はありませんでした。 当時のプラモデルメーカーは「マルサン」「イマイ」「アオシマ」「フジミ」や「タミヤ」で、外国製では「Revell」があり、中でも精密さからいえばやはり当時は「タミヤ」「Revell」

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    o9875 2018/08/17
    国分寺
  • 国分寺駅北口今と昔/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    左の地図は、2017.4.29に東栄会側(東街区)の建設現場の外壁に掲げられていたものので、右の【完成形】はコの右下の一部拡大したものです。ここには完成までの通路の変化が示されていますが、ここには平成29年12月23日〜竣工引渡予定となっています。右の【完成引】の部分には、完成した東街区、西街区の建物の中の通路を表したものです。西街区のビルには駅の通路が真っすぐ北側に伸びています。東街区への通路の他に、現在の東側の駅の入口が残り階段が設置されて東栄会側に出られるように見えます。 変わる北口の街並 トップへ 【国分寺駅北口再開発 完成前の国分寺駅北口周辺 2017.4】 明治22年(1889)に甲武鉄道の新宿〜立川間の開業とともに国分寺駅は開設されました。当時は、列車は蒸気機関車で、真っ黒な大量の煙を吐きながら走るため当初予定だった府中から猛反対を受け、国分寺村の有志が鉄道の駅の開設に協力し

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    o9875 2018/07/30
  • 国分寺駅北口の今昔/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    上の2枚の写真は、みにこみ国分寺20号に掲載されました、国分寺駅北口大通りを北側から見た写真です。一番上の写真は、昭和60年頃に町二丁目交差点近くにあった田中順成堂の田中丈夫氏が撮影したものです。すぐ上の写真は、平成16年(2004)に筆者が撮影したものです。この時点では、国分寺駅は旧駅舎から平成元年に現在の駅舎になっていますのが、旧駅舎の改札位置までの坂道は残っています。大通りの正面には、国分寺駅ビルがそびえ立っています。再開発が行われた現在では、写真の国分寺駅北口大通りの右側の商店街は姿を消してしまいました。 因に手前から、平禄寿司、もり薬局、保科理容室、多根果実店、まつだ化粧品店、道路を挟んで柳寿司、中華柳屋と続きます。

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    o9875 2018/07/30
  • 昔のまちなみ/国分寺もろもろ/CHSいろいろサイト

    この頃の国分寺駅北口には、今は南口から出ている京王バスや、多摩湖線踏切そばのバス車庫を起点とする西武バスや、今は経路が無い立川バスも走っていました。 当時は今の様に自家用車は多くなく、まばらに通るのみでした。このころから通行人も急激に増えた自家用車に慣れておらずかなり横断時の事故もおおかった様です。そんな中、京王バスは人身事故を起こしてしまい、これを切っ掛けに乗り入れていた京王帝都は南口へ、西武バスは西側の多摩湖線国分寺踏切のバス車庫へと、狭くて危険な道ばかりの国分寺駅北口周辺から移ってしまいました。残っているのは大通りをまっすぐ進む昭和病院方面行きの立川バスのみになりました。 地図は別ウィンドウで拡大出来ます 地図は昭和40年代で、リンクしている写真は、昭和36年前後に田中丈夫氏が撮影したもので掲載の地図と異なる場合があります。 国分寺駅前クラブさんより、上記より地域を拡大した、改訂版の

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    o9875 2018/07/30
  • 国分寺北口再開発前の景色/CHSいろいろサイト

    平成25年の中旬より、構想時より30年経って国分寺駅前再開発がスタートすることになりました。 JR国分寺駅前は、再開発事業が立ち上がってから諸事情でなかなかスタートしなかったので、建て直しが殆どなありませんでした。いつか再開発が始まるからということで、改築などが進めずにに古い建物が残っている地域です。 再開発地域は、現在の北口駅前(バス乗り場の大通り)交差点の西側から西は養老乃瀧までで、北は町2丁目交差点の三菱東京UFJ銀行手前の範囲です。最初は駅前大通りのケンタッキーFCの前から買収が始まりましたが、経済の変化などで当初の計画が変わってなかなか進展しませんでした。それが今年の夏あたりから大きく動くことになったようです。 (この記事の時点は2013年3月の再開発着工前です。)

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    o9875 2016/06/14
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