「ま、いいんじゃない(大意)」とは言われたものの、なにかその態度がポストモダン的判断保留にしか見えない。 そして、ポストモダン的態度というのは常にある種の無自覚さに支えられている。あるいは、意図的な欺瞞に。その「無色透明」な姿勢は「自分が今存在している位置」を無視した地点に立っているようにみえる。 「中立」を「自称」する無自覚な政治的発言が常に左右両極のどちらかよりに分類できることを考えれば、あらゆる価値、信仰、信念体系への言及はその「決して外部には立ち得ない位置」が与えられるはずではないか。 政治的判断を取り除いた誠実さに基づいた外部の「観察者」的な態度こそが、「自称」ではない真の「中立」として提示されているのだが、それもまたおかしなものに見える。 「価値中立性」とは、その政治性を極限まで薄めた「紹介」的言説であると理解すれば、それはそれでその働きに意味を見いだすこともできるかもしれない