「いいですとも。あした、晴れるようならね」スコットランドの小島の別荘で、哲学者ラムジー氏の妻は末息子に約束した。少年はあの夢の塔に行けると胸を躍らせる。そして十年の時が過ぎ、第一次大戦を経て一家は母と子二人を失い、再び別荘に集うのだった――。二日間のできごとを綴ることによって愛の力を描き出し、文学史を永遠に塗り替え、女性作家の地歩をも確立したイギリス文学の傑作。
「いいですとも。あした、晴れるようならね」スコットランドの小島の別荘で、哲学者ラムジー氏の妻は末息子に約束した。少年はあの夢の塔に行けると胸を躍らせる。そして十年の時が過ぎ、第一次大戦を経て一家は母と子二人を失い、再び別荘に集うのだった――。二日間のできごとを綴ることによって愛の力を描き出し、文学史を永遠に塗り替え、女性作家の地歩をも確立したイギリス文学の傑作。
ありがとう西武大津店 「島崎(しまざき)、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」 一学期の最終日である七月三十一日、下校中に成瀬(なるせ)がまた変なことを言い出した。いつだって成瀬は変だ。十四年にわたる成瀬あかり史の大部分を間近で見てきたわたしが言うのだから間違いない。 わたしは成瀬と同じマンションに生まれついた凡人、島崎みゆきである。私立あけび幼稚園に通っている頃から、成瀬は他の園児と一線を画(かく) していた。走るのは誰より速く、絵を描くのも歌を歌うのも上手で、ひらがなもカタカナも正確に書けた。誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃(はや)した。本人はそれを鼻にかけることなく飄々(ひょうひょう)としていた。わたしは成瀬と同じマンションに住んでいることが誇らしかった。 しかし学年が上がるにつれ、成瀬はどんどん孤立していく。一人でなんでもできてしまうため、他人を寄せ付けないのだ。意図的にそ
1930年代のアメリカでは、銀行を襲う犯罪者たちが悪のヒーローとして大衆のあいだで名を馳せた。 アーサー・ペン監督の「俺たちに明日はない」(1967年)で描かれたボニー・パーカーとクライド・バロー、ジョン・ミリアス監督、ウォーレン・オーツ主演の「デリンジャー」(1973年)のジョン・デリンジャー、その仲間のレスター・ギリス、あるいは機関銃を撃ちまくったジョージ・“マシンガン”・ケリーとその妻キャスリン、恐るべき子供(アンファン・テリブル)と呼ばれたチャールズ・“プリティ・ボーイ”・フロイド、あるいはまた息子たちが犯行を重ね、その首謀者とも目されたアリゾナ・クラーク・“マ”・バーカー。 挙げていけば切りがないが、いずれも実在したアウトローである。1930年代はアメリカの大恐慌時代。彼らの多くは疲弊した中西部のプアホワイト。「俺たちに明日はない」のなかに銀行に土地、家屋を取られた貧しい農民がボ
※このエッセイには性暴力場面の撮影に関する記述があります 12 インティマシーコーディネーター 昨年はハードな役が続きました。何人もの愛人を囲い、人を殺めることもためらわない詐欺師。歯向かう者は消し、臓器ブローカーに死体を売り払う男。ショットガンで人を撃ち、手をナタで切り落とすサイコパスの連続殺人鬼。 中でも一番ハードだったのは、自分の娘に幼い頃から性的暴行を加え続けている父親の役。そう、NHKドラマ「大奥」で演じた徳川家慶です。放送後、大きな反響をいただきました。 この作品は、まず台本を読んだ段階でストーリーがとても独創的なのが気に入りました。が、僕にとっても娘役の俳優さんにとっても心身ともにハードな現場になるのは明らかでしたので、お受けするにあたって僕は必ず「インティマシーコーディネーター」さんを付けてください、とお願いしました。制作サイドも最初からそのつもりでいらしたというので、それ
読み終えるのがもったいない本だった。読みたい、でも読むと終わってしまうという葛藤を感じながら一日で読んでしまった。 この小説の魅力はなんといっても主人公である成瀬あかりの圧倒的な存在感だろう。 うまいこと喩えたいのだが、あまりにこれまでに読んだことがない物語なのでいい喩えが見つからない。 強いて言えば、大津に天まで届く巨大な柱が現れて、周囲の人が戸惑う物語ではないかと思う。ほら、全くうまく喩えられていない。 マンションのチラシの完成予想図のような光り輝く柱ではなく、もっとゴリゴリに堅そうな鋼の柱だ。 成瀬あかりは常にかっこいい。最初の作品「ときめきっ子タイム」では「いかにもわたしが成瀬あかりだ」と言って登場する。そんな元寇に対峙した鎌倉時代の武士のような女子高生いるかね。 でも、成瀬がとる行動は常にストレートなのでそんないざ鎌倉みたいな口調にも違和感はない。 郷土愛、防犯、人助け……どの行
本作の舞台は、ザハ・ハディドの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本。犯罪者に快適な生活を保障する刑務所「シンパシータワートーキョー」の設計に携わる牧名は、その空虚な名称を受け入れられず苦悩していた――。 受賞会見で話題を呼んだ「全体の5%くらい生成AIの文章を使っている」という発言に踏み込む決定的談話。(編集部) 私が最初にChatGPTに投げかけた質問はこんなものでした。「毎日が退屈です。レジリエンス(回復力)を高めるにはどうすればよいですか?」。前作「しをかくうま」が芥川賞にノミネートされず、鬱っぽくなっていた時期のことです。 同じ頃、新潮社の編集者に声をかけられ、食事をすることになりました。文学や建築の話で盛り上がり、その編集者が口にした「アンビルト」という概念にも関心を持ちました。それは楽しい、充実した時間でした。 ところが食事を終え駅に着くや否や、編集者は「原稿、ど
目次 プロローグ試し読み全文公開 大学院生の「僕」は就職活動のエントリーシートで手が止まった。「あなたの人生を円グラフで表現してください」 僕はなんのために就職するのだろうか? そこに何を書くべきなのか、さっぱりわからなくなった僕に、恋人の美梨は言う。「就職活動はフィクションです。真実を書こうとする必要はありません」 三月十日 東日本大震災から3年後の3月11日、僕は高校の同級生たちと酒を飲んだ。あの日、どこで何をしていたか――誰もが鮮明に憶えているのに、前日の3月10日については、ほとんど憶えていない。僕はその日、何かワケあって二日酔いになるほど飲んでいたらしいのだが……失われた一日の真相とは? 小説家の鏡 博士課程に進み小説家になった僕に、高校時代の友人西垣から相談が持ち掛けられた。「妻が小説を書きはじめ、仕事を辞めて執筆に専念したい」と言い出したという。しかも青山の占い師のお告げに従
作家は自らに固有の表現の場所を定め、それを深く、広く、掘り進めてゆく。いまここに『街とその不確かな壁』を世の中に問うた村上春樹は、そうした作業をこれまで徹底して追究してきた希有な作家である。そのことが、誰の目にも明らかとなった。作者自身が巻末に例外的に付した「あとがき」のなかで、この特異な長編小説が書き上げられるまでの経緯を過不足なく語ってくれているからだ。 なによりも、この物語には原型となった中編小説が存在している。雑誌『文學界』一九八〇年九月号に掲載された「街と、その不確かな壁」である(以下、この中編小説を指す場合には「街」を、ほぼ同じタイトルを付された長編小説を指す場合には『街』を用いる)。しかも、作者が自らにとって表現の原型にして表現の原風景としてある作品を長編小説として書き直すのは、今回がはじめてではないのである。現在から見るならば、その初期の文業を代表する『世界の終りとハードボ
海外文学から多大な影響を受け、著作が広く翻訳され、日本だけでなく世界中に読者を獲得している作家――と言われて、誰の名前を思い浮かべるだろうか。 あるいはこう言い換えてもいい。同じモチーフやテーマを複数の作品の中で繰り返し問い続け、自作の参照や再解釈を行う作家。 ある人は大江健三郎の名前を、また別の人は村上春樹の名前を思い浮かべるだろう。 こうして二人の世界的な作家の特徴を恣意的に取りだすと、二人は非常に似通っているのではないかという印象を抱くかもしれない。しかし――おそらくみなさんもご存知のように――この二人の作風や文体に近い点は見当たらない。むしろ、ある意味では対極にあると言ってもいいかもしれない。『1973年のピンボール』が『万延元年のフットボール』をもじったタイトルであるという点以外に、二人を結びつける点はなさそうに思える。 どうして僕がこんな話をしたのかというと、村上春樹の新作『街
一人の男の長い告白を、今、聴き終え、安易にうなずくこともできず、かけるべき言葉も浮かばず、ただ沈黙の中にじっと身を沈めているような気分だ。私たちの間で燃えていたはずの薪ストーブはいつの間にか消え、林檎の香りは半地下の部屋の暗がりに飲み込まれている。 最初から、自分は男に会ったことがあるはずだ、と気づいていた。学生寮の屋上で、飛び去る蛍に手をのばす若者、ただ果てしもなく歩き続けるだけのデートをするカップル、本が一冊もない図書館へ通う目の悪い〈夢読み〉、たまりの水面に映る影。かつて目にしたそのようなもろもろの場面で、彼の姿を認めたのは間違いない、と思うこちらの確信に、彼は無関心を装う。あくまでも礼儀正しく、しかしきっぱりと、いいえ、あなたのことは知りません、という態度を貫く。 それでも男の声は心地よく耳に届いてくる。彼にとっての最も大事な話を、私一人のために打ち明けてくれているような錯覚に陥る
なじみあるあの世界は排ガスとともに彼方へ消えうせた。 左右いずれも見とおしの悪い昨今、絵空事めいたアクシデントが相つぐばかりの道が果てなくつづく。 わが身の現実が、異世界の虫魚に食いやぶられる悪夢にでも放りこまれたかのようだ。 あるいは現に、そういうことが起こってしまったのかもしれない。 振りかえってみれば、路上に散らばる証拠をいくつも目撃した気がする。 イーロン・マスクの登場は、その最たるものだろう。 ● そもそもの話、イーロン・マスクの出現はきわめて不自然な現象と言える。 マーベル映画キャラクターのモデルになったというが、なるほど彼の経歴や人物像はトニー・スタークにもひけをとらぬくらいに虚構じみている。ふたりの名を不意に耳にすれば、実在するほうはどっちだったかと混乱しないでもない。 仮に両者が入れかわり、小型核融合炉を胸もとに装着し全身パワードスーツをまとったイーロン・マスクマンが上空
誰にも似ていたくない。他の誰でもない自分としてこの世に在ること、その意味を実感したい。自分自身の唯一性を実感したいというのは、とても根源的な感情だろう。 それと同時に、誰かに理解して欲しいという想いもまた同様だと思う。自分がこれこれこのような存在であることを受け止めて、理解して欲しい。それは、もしかしたら先の「他の誰でもない自分としてこの世に在ること」と矛盾しないどころか、その欲望を補完するものかもしれない。ならば、わかり合いたい、と思うのはどうだろう。「唯一の自分を認識されたい」から派生した「他者からの理解」を欲する心ではなく、誰かをわかりたいという気持ち、それも同様に根源的なものなのだろうか? わかってもらう代わりに、誰かをわかってあげるべきだというだけのことなのか? 太陽との位置関係、自転する偶然、月や水の存在、大気の組成。それらの奇跡的なバランスで我々の住む惑星には生命が誕生し、育
言葉がつっかえる、いわゆる「どもる」吃音の人は、詰まり方や軽重の度合いはさまざまでも、日本中におよそ百万人いるとされる――僕も、その一人である。 決して症例が少ないわけではないのに、吃音が起きるメカニズムは不明。治療法も確立されていない。なにより〈本人にとっては深刻でも、他人からは問題がわかりにくい場合がある〉。苦手な言葉でも場面や体調などによってうまく話せるときがあるから、ややこしい。さらに〈うまく話せなくなりそうな場面で沈黙すれば、他の人から見たらそもそも何が問題なのかほとんどわからないということにもなりうる〉……。 著者の近藤雄生さん自身、本書の中でも詳細に記しているとおり、かつて吃音に苦しんできた。ところが二十代も残り半年になった頃、2005年の終わりに突然症状が軽減して、〈吃音は、私の中からその姿を消していった〉。そうなのだ。そういうことがあるのだ、吃音には。僕も一番症状がひどか
いろいろあって当たり前。 ライフってそんなもんでしょ。 13歳になった「ぼく」の日常は、今日も騒がしい。フリーランスで働くための「ビジネス」の授業。摂食障害やドラッグについて発表する国語のテスト。男性でも女性でもない「ノンバイナリー」の教員たち。自分の歌声で人種の垣根を超えた“ソウル・クイーン”。母ちゃんの国で出会った太陽みたいな笑顔。そして大好きなじいちゃんからの手紙。心を動かされる出来事を経験するたび、「ぼく」は大人への階段をひとつひとつ昇っていく。そして、親離れの季節が――。 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2 目次 【 試し読み】 うしろめたさのリサイクル学 A Change is Gonna Come ―変化はやってくる― ノンバイナリーって何のこと? 授けられ、委ねられたもの ここだけじゃない世界 再び、母ちゃんの国にて グッド・ラックの季節 君たちは社会を信じられ
東京の都心から30~40キロをぐるり、横浜、町田、八王子、福生、川越、柏、木更津……と330キロ。縄文時代から居住に好まれ、歌になり小説になり。この「郊外」人気エリアの地形が、「隈研吾」の建築の一翼をも担っていた。その意味は? 柳瀬 設計された「Hisao & Hiroko Taki Plaza」が東京工業大学(目黒区大岡山)にいよいよ竣工ですね(対談・撮影は東工大で行われた。お二人の後ろに見えるのが、このTaki Plaza)。コロナ禍で遅れましたが、学生の国際交流の拠点となり、図書館とも接続するようですね。 隈 大岡山に「建築ではなく、丘をつくろう」というコンセプトで、傾斜をそのまま利用して階段状に高さのレベルを持たせました。学んでもいいし友達と話してもいい、連続的な斜面だから、好きな場所を勝手に選べます。 柳瀬 東工大は呑川(世田谷区、目黒区、大田区にまたがる東京都の二級河川)の「流
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