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ブックマーク / math.artet.net (4)

  • 鈴木健『なめらかな社会とその敵』 | TETRA'S MATH

    『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。 * かつて、何かのを読んでいるときに、「わたし」はいて、そして「わたし」はいないという感覚を味わったことがありました。どののどの部分だったかメモしておけばよかったなぁとも思うのですが、その瞬間は栞とかメモとか、そういうことにも考えが及ばなかったでしょう。また、たとえメモしていてもう一度同じところを読めたとしても、同じ感覚は味わえないような気がします。覚えているのは、不思議な安堵感、開放感を味わったという事実のみ。 鈴木健さんの提案する分人民主主義は、自己の結晶化を否定するものであるということを、前回のエントリで書きました。個人民主主義においては、個人の一貫性と組織や国家の同一化が中心となる規範と論理だったけれど、分人民主主義が大事にする規範の論理は、身体から生じる自然な声や情動を重

    鈴木健『なめらかな社会とその敵』 | TETRA'S MATH
  • 初等数学教育をとりまく、私が感じる“ねじれ”を整理してみる | TETRA'S MATH

    私はこのブログで「ねじれ」という言葉をたびたび使っていますが、何がどうねじれていると思うのか自分でもぼんやりとしたままなので、ここらでちょいと整理してみることにします。  まず、私のなかの実在論と反実在論のねじれがありましたが、この件についてはその後変遷があり、フレーゲにとって「客観性」とはどういうことかで、自分が何に拒否反応を起こしているかを少し整理することができました。私が拒絶しているのはある種の客観主義であり、それは、「正解は1つでもうそれは決まっていて動かない。あとは(それを知らない)あなたがそれを知るか、(それを理解していない)あなたが理解するか、(それを認めていない)あなたが認めるかどうかの問題だ」というようなスタンスだ、と。このようなスタンスをAとします。  同時に、「正解は決まっていないのだ、決まらないのだ、決めようがないのだ、人によって異なるのだ、考え方しだいなのだ」と完

  • 数学はメンタルな「行為」だと主張した人/ブラウワー |  TETRA’s MATH

    先日帰省したときに、旅のおともの1冊として、『ダメットにたどりつくまで ―― 反実在論とは何か ――』(金子洋之著/勁草書房/2006)を持って行きました。実際には、帰省しているあいだは序論と第1章、第2章をざっとながめただけでほとんど読めなかったのですが、ざっとながめただけでも、なんというのか、スリリングな予感がしました。 まず驚いたのは、「ブラウワーって人はそんなこと考えていたの!?」ということ(第2章)。ブラウワーについてはこのブログでもちょっと触れていますが(*)、私はこれまでブラウワーのことを、「排中律を拒否した人」くらいに認識していました。もちろん、「存在することは構成されること」という構成主義的立場も一応頭に入れていましたが、実はもっと過激な(!?)ことを考えていたのだと、このたび初めて知りました。 その直観主義数学の基的な見解とは、次のようなものだそうです。 (1) 数学

  •  TETRA’s MATH

    上野修『スピノザの世界』の、図が示されている部分を中心に読んでいる。 前回、スーパービーンという言葉で説明されている状況を見てきたが、無限知性の中にある「人間身体の観念」も、「しかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる」とのこと。 その観念がその人間の「精神」だとはどういうことかを考えるにあたり、再び「半円が回転→球」が出てくる。以前見たように、「半円が回転」は「近接原因」であり、「半円が回転」という思考がなければこの観念は理解不能だし、逆に、「半円が回転」という思考があれば、その思考は必然的に「半円が回転→球」という理解にすすむことになる。 つまり、 「半円が回転」→「半円が回転→球」 ということ。 もし、アニメーションで説明するのであれば、「半円が回転」をまず示し、これは近接原因で単独では意味がないので、すぐに「→球」が浮かび上がるというイメージなのだろうと私は理解

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