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ブックマーク / tkshhysh.hatenablog.com (2)

  • 行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム - Metaeconomics

    次のような見解は、隣接社会科学においては以前から支持されていたであろうものだが、90年代中盤以降、経済学のメインストリームにおいても一定の支持を集めているものである:(1)人間は必ずしも従来の経済学の想定するような意味では「合理的」ではない;(2)しかも合理性からの乖離は、結論の定性的性質に影響を与えないような副次的要素あるいは誤差ではなく、定性的影響を持っている;(3)そうした乖離は決してランダムなものではなく、それ自体一定の規則性を持っている。 ここでまず、経済分析に関する限りでの「合理性」の範囲を確認しておくとそれは、各個人が(I)彼自身の整合的な優先順位・達成目標を持ち、(II)それを達成するために必要な、外界に対する正確な認識と情報とを持ち合わせ、(III)それらを論理整合的に処理し、自分の優先順位にとって最適な選択を導き出すことができる、というものである。*1あくまで個人レベル

    行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム - Metaeconomics
  • 経済理論覚書 GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?

    マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか? 外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。 GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々が

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