メッセージにある程度共感できるだけに、そして重要な知見がしっかり含まれているだけに、あまりの杜撰さが、読んでいて辛い。 簡単にいえば、そういう本だ。 なぜ、こんなことになってしまったか? それは本書を構成する三つの異なる論点 (a) いわゆる「原発推進論」への個別具体的な反論 (【原発危機】) (b) 「原発推進論」を構成する言語メカニズムの解明 (【話法】) (c) その特異な言語メカニズムに依拠するアカデミズム批判 (【東大】) が、まったく整理されないがために、すべてが中途半端になっていることに起因する。 _ その欠陥が端的に顕れているのが、以下の二点だ。 第一に、(a)と(b)のトートロジー。 本来であれば、 既存の「原発推進論」の全体像を素描したのちに、そこから共通の「話法」を導くか((a)⇒(b))、 もしくは、「話法」を根拠をもって定義したのちに、それを任意の「原発推進論」
期待外れでした。 「原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語」がとても示唆に富み、これぞ学者の書いた本というほど無駄の少ない筋肉質な文章も自分好みでしたのでワクワクして本書を読み始めました。 2章までは良かったのですが、3章「「立場」はどうやって生まれたのか」の後半のコンピュータの話の辺りから短絡的な論理が展開され始めました。 5章「「東大話法」が男と女をこじらせる」までは「これも「立場」で説明できます」という論法で色々な事象を説明していましたが論理的な説明が不足していて納得感がありませんでした。 そんな様子でしたので3章以降は斜め読みです。 教養を深めるというよりはひま潰しの本だなと感じました。 「前著であれだけのことを書けた方がなぜ?」と悲しくなりました。 あとがきに、この本はフリーライターの方がまとめたものだ、と書かれていたのでそのせいでしょうか。
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