後年、事件の現場付近に建てられた石碑が京急本線生麦駅近くに残っており[注釈 1]、1988年(昭和63年)11月1日に市の地域史跡に登録された[3]。 事件の概要[編集] 事件前の状況[編集] 事件当時の生麦村。東海道に沿った集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られている。 文久2年(1862年)、薩摩藩主・島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光(44歳)は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち(文久の改革も参照)、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった[4]。 八ツ時(午後2時)頃、行列が生麦村に差しかかった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク