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ブックマーク / tokyosigaku.jugem.jp (5)

  • 続・江戸の話 三十五 | 東京史楽

    江戸の話、生業の話を紹介し続けているが、娼家について扱わないのを訝しむ向きもあろう。『守貞謾稿』では娼家は生業とは別に詳述されているから、生業の記事紹介を終えてから扱いたい。もっとも巷間、江戸の娼家については一家言ある方々も多いから、強いて紹介するまでもないのかも知れない。 とはいえ、娼家を全く扱わないのも手抜きの感がある。そこで洒落『聖遊廓』を紹介し、お茶を濁そう。孔子・老子・釈迦等の聖が遊興する遊廓の話である。 緡蛮たる黄鳥丘隅に止る、とヾまるところにとヾまらざれば、鳥にだもしかじといふ、四角な文字の角取て、鳥は木に住む魚は水にすむ、人は情の下にすむと、臼つき歌にうたはすは、これも和国の道ならめ、廓の歌は客の浮気をたねとして、万のはうたとぞなれり、長歌、短歌、船歌、馬方、たけき悪者の心をやわらぐるも、ゆかりのつきの一ふしぞかし、さればこそ銀は抛(なげうて)ども、江口の君のなげぶしに

  • 百年新報 (1913.06.02) | 東京史楽

    多摩川の大不漁 鮎漁解禁第一日 「東京朝日新聞」1913/06/02 好漁家が一日千秋の思して待ちし昨日の鮎漁解禁第一日は日曜日とて各川筋とも賑へるが、中にも多摩川は近年稀なる繁殖と伝へられしかば、吾れも吾れもと思ひ思ひの釣針求りて押出したる人数夥しく、殊に多摩川電車を利用せる二子の渡し付近は婦人子供を伴へる者、毎電車満員といふ盛況なりき。然るに漁況は案外にて、下流は兎に角、多少の獲物ありたれど、立川付近より其上流なる拝島、福生、羽村等は殆ど鮎の形も見せざる程の大不漁にて、毎年二百人余も出づるといふ八王子辺も僅かに数十名出漁せしのみ。土地の漁師はドブ釣りも友釣も駄目なりとて、モヂリを伏せ居るも、是亦、二三十尾を漁獲せしもの稀なり。 斯く鮎が川筋一帯に減少せるは稚魚の期節に降雨少なく、水涸れとなりて上流に上り得ざりしが最大原因なるべきが、偶々上り得しものも、是迄塞ぎありし羽村の堰止に、年初

  • 第10回 [3人の神様]木下淑夫 | 東京史楽

    激戦、関西鉄道対官営鉄道 日の鉄道を生まれ変わらせた「3人の神様」シリーズの最後は、「営業の神様」こと木下淑夫(きのしたよしお)です。これまでこのシリーズで取り上げた結城弘毅と島安次郎は国有化される前の私鉄の出身でしたが、木下は国有鉄道出身で、国有鉄道のサービス向上に努め、その後の国鉄、JRへと続く営業制度の基盤を作り上げた人物です。 彼は1874(明治7)年に京都府熊野郡の酒造家木下善兵衛の次男として生まれました。年齢的には島の4歳下、結城の4歳上とちょうど中間にあたる人物です。1898(明治31)年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、引き続き大学院で法律と経済を学びました。1899(明治32)年に在学のまま逓信省鉄道作業局工務部に鉄道技師として就職、1902(明治35年)には鉄道作業局の運輸部旅客掛長になります。 この時、国有鉄道が直面していたのは名古屋〜大阪間を並行する私鉄関

    orihime-akami
    orihime-akami 2012/07/04
    第10回 [3人の神様]木下淑夫
  • 第9回 都市計画と関東大震災 | 東京史楽

    市区改正計画のその後 前回は交通機関の整備と東京の人口のお話でした。路面電車が整備されるにつれ1904年には230万人、1914年には280万人と人口が増加し続けてきた背景を追いました。 ところで連載第5回において、東京の都市計画について触れました。東京を欧米列強にならぶ近代的首都へと改造する「市区改正計画」です。1888(明治21)年8月に市区改正条例が成立し、あわせて「東京市区改正委員会」が設立されました。しかし、日政府にも東京府にもお金がありません。国としては軍備拡張、地方のインフラ整備・開発で手一杯。東京市も上下水の整備や不燃化で手一杯、懸案だった路面電車市営化も外債を発行して買収資金を調達するほどの財政難でした。結局、1888年に制定された「市区改正計画」はほとんど進捗せず、1903(明治36)年に再度規模を縮小して「市区改正計画新設計案」が決定されることになります。 新設計で

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    orihime-akami 2012/03/28
    第9回 都市計画と関東大震災
  • 第8回 電車時代と生活圏の拡大 | 東京史楽

    鉄道の公有化 前回は電車の発明と伝来、それに伴う東京の交通網の変化を取り上げました。1903〜1904(明治37)年なので、ちょうど日露戦争の頃、日がアジアの小国から先進国に伍する存在へと飛躍を遂げる頃のお話です。最先端の軍艦や無線など様々なテクノロジーロシア海軍を圧倒して対ロ講和へと導いた裏側では、首都東京も「先進国」の技術を取り入れて変貌を遂げていました。何もかもが大きく変わっていく、時代の転換期でありました。 さて、この日露戦争は東京の鉄道にも大きな影響を与えることになります。まず、全国の鉄道網という観点で見たときに、国が保有する国有鉄道は東海道線などごく一部でしかなく、各地域が日鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道といった私鉄によって保有されていました。日清戦争の時点では東京〜広島までしか鉄道は通じていません。1901(明治34)年に東京〜下関が開通し、日露戦争は鉄道輸送を駆

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    orihime-akami 2012/03/21
    第8回 電車時代と生活圏の拡大
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