宗教のレトリック [著]中村圭志 「かたり」が「語り」でもあれば「騙(かた)り」でもあるということには深い含みがある。マコトの語りとダマシの語りの差をないものにしてしまうからだ。それは「在るもの」と「作られたもの」の区別をさえ失効させてしまう。 レトリックといえばふつう、口先だけの美辞麗句だとか、まやかしの詭弁(きべん)、人を焚(た)きつける雄弁など、誘導の技だとおもわれている。けれども、新聞はアメリカの大統領のことを「ホワイトハウス」と言い、学術論文は「~は明らかである」と結論づける。童話には「白雪姫」や「赤頭巾ちゃん」が登場し、日常の会話には「椅子の脚」だとか「タヌキ親爺(おやじ)」「縄のれん」といった表現が無数にある。唯一無比の存在たるブッダやイエスという名もじつはそれぞれ「目覚めた人」「救世主」という役柄を意味する。こういうレトリカルな表現の織物としてわたしたちの現実は編まれている