タグ

逃避に関するorticaのブックマーク (3)

  • 無責任であることに無自覚な「普通の人」 - 非行型愚夫の雑記

    「普通の人」は反差別・反貧困・反歴史修正主義のことをサヨクと呼びます。 そしてサヨクに対して「アドバイス」をしたり「『アドバイス』通りに行動するなら助力しないでもない」と言ったりすることはあっても通常それらの問題に対して自発的には行動したがりません。「普通の人」自身が差別・貧困歴史修正主義を悪いことと認識しているのにも関わらずです。 差別・貧困歴史修正主義は思想の左右の問題ではありません。「普通の人」も所属する「私たちの社会」の問題です。 つまり「普通の人」はそれらの問題に対し自らが所属する社会の当事者として良識に基づいて行動することをサヨクと呼び、「普通の人」自身から切断しているのです。 「普通の人」はそのようにして「私たちの社会」の問題に対応する責任をサヨクに丸投げし、「私たちの社会」の当事者として振る舞う責任から逃避しているわけです。その方が楽ですもんね。 これは実に無責任な振る

    無責任であることに無自覚な「普通の人」 - 非行型愚夫の雑記
  • ラピュタなんてなければ、幸せだったのに - 拝徳

    ラピュタを見た。やっぱり20年を超えて今もなお語り継がれるジブリ作品とだけあって、今もなおその面白さは色褪せない。 名作はいつの時も見る人の成長にあわせて違った何かを見せてくれる。 ラピュタで一つの重要なテーマが主人公のパズーとシータ二人の境遇である。 パズーは、貧しい炭坑街の孤児。そしてシータもまた貧しい寒村の農家の孤児。 永遠に開けることのなかった未来は「飛行石」という奇跡によって急展開を迎える。 ドーラのもう2度と戻れないかもしれないよ。との問いに迷わず構わないと答えたパズー。 戻れなくなっても構わない、という覚悟だったのか、戻りたくなかった、という逃避だったのかはわからない。 少なくとも二人には失うものなんて何もなかった。 きっとパズーとシータは多分あの冒険が人生の絶頂になるんだろう。 得難い経験をしたことは確かだけど、ドーラ一家と別れた後、二人を待ち受けている現実はあまりにも残酷

    ラピュタなんてなければ、幸せだったのに - 拝徳
  • 「萌え」と「恋愛」それぞれの嘘 - 烏蛇ノート

    久々に恋愛についてのお話です。 今回は宮台真司氏のこちらの記事について。 生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。 宮台氏の議論は非モテ界隈ではよくある「脱オタのすすめ」の一種であり、「萌えに逃避せずに現実(の恋愛)と向き合え」という論調です。「萌えに逃避している」と言われた側は当然反発するわけで、kagami氏のこの記事はこうした「反発」の分かりやすい例でしょう。

    「萌え」と「恋愛」それぞれの嘘 - 烏蛇ノート
  • 1