タグ

ブックマーク / nakaii.hatenablog.com (2)

  • 川端康成の嘘 - 翻訳論その他

    川端康成が自身の翻訳観・日語観を披歴した文章に「鳶の舞う西空」という随筆があって、精読したことがある。「『源氏物語』の作者に『紫式部日記』があった方がよいのか、なかった方がよいのか。なくてもよかった、むしろなければよかったと、私は思う時もある」という書き出しのこの随筆は、最初のほう「源氏物語」の英訳や日古典の現代語訳について取り留めのない話をしているけれど、半ばあたりでおもむろに「川嶋至」という名前を出し、そこから先、この人への反論となる。どうやら翻訳の話は枕にすぎなくて、反論が題であるようだ。川嶋至は知らない名前だったので、精読の一環として軽い気持ちで調べ始めたら、とまらなくなった。それで結局、国会図書館まで行くはめになった。もう十年くらい前の話になるけれども。 いま小谷野敦『川端康成伝 双面の人』を読んでいるのだが、読み始めてすぐ、この人の名前が出てきた。引用させてもらう。「川端

    川端康成の嘘 - 翻訳論その他
    ortica
    ortica 2013/06/12
    [h:keyword:川嶋至][h:keyword:保身][google:images:保身]
  • 哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える - 翻訳論その他

    國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、「退屈の第三形式」をめぐる議論に興味を持った。國分によれば、ハイデッガーは『形而上学の根諸概念』で「退屈」を次の通り三つの形式に分けている。(※以下、「ハイデッガーは」とあるのは「私の読んだところ國分功一郎によればハイデッガーは」の意。括弧内の頁数は『暇と退屈の倫理学』のもの。また、引用元で傍点が付されている言葉は引用中太字で示した。) 一.何かによって退屈させられること(Gelangweiltwerden von etwas) 二.何かに際して退屈すること(Sichlangweilen bei etwas) 三.なんとなく退屈だ(Es ist einem langweilig) 順番に見ていこう。まずは第一形式の退屈。これはわかりやすい。この退屈は、いわゆる「手持無沙汰」の状態を指していると考えられる。例としてハイデッガーが挙げるのは、田舎の駅

    哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える - 翻訳論その他
  • 1