1900年のパリ万国博覧会は、ミュシャにとっては、華やかなヨーロッパ文明の影に潜む闇の部分を浮き彫りにしたイベントとなりました。わずか5年の間に名声を築いた彼は、オーストリア政府の依頼で、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の内装を担当します。この準備のため、ミュシャは「ヨーロッパの火薬庫」となりつつあったバルカン諸国を訪れますが、この時、スラヴ民族の置かれた複雑な政治問題を改めて実感します。さらに祖国がオーストリアの植民地政策に苦しんでいる時に、この仕事を請け負う矛盾に打ちのめされます。苦悩の中、ミュシャは祖国とスラヴの同胞のために働く決意を新たにし、後の《スラヴ叙事詩》の構想が生まれます。ほぼ同時期、ミュシャは長年追求してきた神智学的な思想を極めるため、パリでフリーメイソンに入団、人類へのビジョンを構想した最初の作品として、『主の祈り』を出版します。パリの著名な宝石商ジョルジュ・フーケとのコラ
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