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ブックマーク / tamarunoboru.cocolog-nifty.com (4)

  • 佐藤康光九段が将棋連盟の会長に就任した2月6日の臨時総会の模様: 田丸昇公式ブログ と金 横歩き

    【追記・2月13日】 2月13日に発売された『週刊ポスト』(2月24日号)が《三浦九段「冤罪騒動」は終わらない!   将棋連盟「紛糾総会」大混乱の現場》というタイトルで、2月6日に行われた将棋連盟の臨時総会の生々しい模様を報じていて、理事解任動議を提出した28人の棋士の中で発起人を務めた3人の棋士の実名を挙げています。『ポスト』誌は今後も三浦九段の問題を取り上げていくそうです。 【2月7日に更新した記事】 2月6日に東西の将棋会館において、東西の会場を映像と音声でつないだ「テレビ電話」システムを使って将棋連盟の臨時総会が開かれました。235人の正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、出席者は186人(40人の委任状を含む)でした。 1月18日に連盟会長の谷川浩司九段と常務理事の島朗九段が辞任を表明して欠員が生じたことにともない、総会に先立って正午から理事選挙(定数は東京1人・関西1人

  • 親子棋士、NHK将棋講座、データベースなどのコメントへの返事: 田丸昇公式ブログ と金 横歩き

    otauwohikki
    otauwohikki 2015/06/28
    “将棋界で親子棋士は、木村義雄十四世名人・木村義徳九段、神田辰之助九段・神田鎮雄七段、板谷四郎九段・板谷進九段、西川慶二七段・西川和宏四段と、4組あるだけです。”     /
  • 升田幸三が王将戦で対局放棄した61年前の「陣屋事件」の経緯と真相: 田丸昇公式ブログ と金 横歩き

    1952年(昭和27年)2月17日。第1期王将戦(木村義雄王将・名人―升田幸三八段)第6局の前日の夜に、対局場の神奈川県秦野市鶴巻温泉「陣屋」旅館で前代未聞の事態が起きました。升田が旅館に独りで着いたとき、玄関のベルを何回も押しても旅館側が出迎えない非礼に腹を立て、隣の旅館に引きこもったのです。そして升田は王将戦の関係者に対して、対局を拒否することを伝えました。 将棋連盟と棋戦を主催する毎日新聞社の関係者は驚愕し、翌日の対局開始直前まで升田を懸命に説得し続けました。しかし升田の気持ちは変わらず、ついに対局放棄して不戦敗となったのです。この61年前の出来事が世にいう「陣屋事件」でした。 その後、連盟の理事会は升田の行為を不当とし、1年間の公式戦出場停止の処分を下しました。しかし、ほかの棋士たちから「処分が重すぎる。升田を救え」という声が巻き起こりました。また、将棋を愛好した著名人たちが新聞や

    otauwohikki
    otauwohikki 2014/12/05
    “寒さに弱い升田は温暖地を希望していたのに、寒冷地の和歌山県・高野山と決まりました。「高野山の決戦」といわれた3番勝負は1週間にわたって行われ、第3局で升田がトン死を喫して挑戦権を逃しました。”   
  • 「カメラ小僧」になって写真を撮りまくっていた若手棋士時代の田丸: 田丸昇公式ブログ と金 横歩き

    この写真は、今から37年前の1974年(昭和49年)、東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館の2階ロビーで撮影されました。後方の絵は、将棋を愛好した著名画家の方が将棋連盟に寄贈したものです。そして被写体は誰でしょうか? すでにおわかりですね。若手棋士時代の私こと田丸昇五段(当時24歳)でした。髪の毛(当然ながら黒いです)は美容院でパーマしてウェーブが軽くかかっています。花柄シャツは当時の流行でした。私にも洒落っけを持った青春時代があったのです。 私が手にしているのはニコンの一眼レフカメラで、左はキャノンの一眼レフカメラ。どちらも私が所有していました。右のドイツ製の二眼レフカメラは、撮影用の素材にカメラマンの方から借りました。じつは当時、私は写真に凝っていたのです。 私は少年時代から文章を書くのが好きで、日記は15歳から10年間も書き続けました。棋士になると、将棋イベントや奨励会員を紹介する記事を将棋

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