ブックマーク / seto-konatsu.hatenablog.com (9)

  • 「危険な道」を選ぶと、いのちがパッと開く。 - 窓辺のレモンティ

    先日の記事でも触れた、岡太郎氏の著書「自分の中に毒を持て」。今回も、その著書から学んだ「ほんとうの自分を生きるヒント」について書いてみたい。 www.seto-konatsu.com 岡太郎氏は「人間は、常に二つの道の分岐点に立たされている」と言う。その二つの道とは「安全な道」と「危険な道」だ。私たちは普段の生活でも、朝起きてから寝るまで、この分岐点に立って実に様々な選択をしている。そしてこの分かれ道はもちろん、人生における選択の際にも、私たちの目の前に存在する。 ここで言う「安全な道」とは常識通りの道であり、自分の身の安全や世間体も保証されるような道だ。一方で「危険な道」とは、生活の保障もなく不安定で、世間の常識からは外れた道。そちらに行ったら一体どうなってしまうだろうと不安になる。けれど、実は情熱を覚え、心の底では「行きたい」と願う道だ。 多くの人は「危険な道」に心惹かれながらも(

    「危険な道」を選ぶと、いのちがパッと開く。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/11/20
    志に生きる生き方って、どんどんこれからのスタンダードになっていくと思っています。こなつさんの記事のおかげで、岡本太郎氏に俄然、興味が湧きまくってます。
  • いのちとは、瞬間瞬間で無条件に爆発させていくもの。 - 窓辺のレモンティ

    太陽の塔や「芸術は爆発だ」という名言でも知られる岡太郎氏。彼の著書「自分の中に毒を持て」を読んだ。タイトルは知っていたのだが今まで読んだことはなかった。書店で偶然見つけて何だか惹かれるものがあり、購入したのだ。 読みながら、私はビックリしてしまった。とんでもなく感銘を受け、彼の生き方や生きる姿勢に少なからずショックも受けた。こんなにも自分の生きる筋を貫いて、瞬間瞬間をほんとうに生きた人がいたのか。目を開かれる思いがし、自分にも力がみなぎってくるように感じた。 実はこの、最初に出版されてからもう30年近く経っている。しかし少しも色あせないどころか、今の私たちに驚くほど突き刺さる内容だと思う。かえって重要性が増していると言っても良いかもしれない。このについて語りたいことは多くあるのだけれど、まずは「いのち」や「生きることそのもの」について書いてみたいと思う。 私は病気を経験したこと、それ

    いのちとは、瞬間瞬間で無条件に爆発させていくもの。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/11/20
    すっごく心惹かれるものがあったので、購入して読んでみます。
  • 「生活」と「人生」を分けて考えてみる。 - 窓辺のレモンティ

    みなさん「生活」と「人生」をどのように考えているだろうか。私は「生活」とは普段の日常生活であり、「人生」とはその「生活」が集まったものだという認識を持っていた。 「人生」という言葉にはどこか仰々しい響きがあるが、細かく見れば、それは日々の暮らしの集積だ。一見平凡に見える日々が人生を作っていく。自分が一日一日をどのように生きたか、その「生活」が積み重なり、その人の「人生」となっていくものだと認識していた。ところが、遠藤周作氏の「ほんとうの私を求めて」というを読み、とても面白い考え方に出会った。彼は「生活」と「人生」とを明確に区別しているのだ。 彼は30代後半と50代半ばに、大きな病気をしている。一度目の病気の際には、それを素直に受け入れることはできなかったという。自分に降りかかった不幸を嘆き、日々悔しさを感じては途方に暮れていた。だが後になって、彼は病気になってよかったと考えるようになった

    「生活」と「人生」を分けて考えてみる。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/11/20
    ストンと落ちました。人間万事塞翁が馬ですね。「生活」のミクロ視点と「人生」のマクロ視点を行ったり来たりできる抽象度を持てたらなぁと思いました。
  • 赤ちゃんの瞳に耐えうる生き方を。 - 窓辺のレモンティ

    先日デパートで下りエスカレーターに乗ると、前には小さな赤ちゃんを抱いたお母さんが立っていた。赤ちゃんは抱っこされているので、後ろにいた私とは自然と向き合う形になる。気が付くと、その赤ちゃんはこちらをじーっと見つめている。 私はニコッとしてみたのだけれど、ビックリしたのか恥ずかしかったのか、それともお気に召さなかったのか、少し向こうを向いてしまった。でもすぐに再び、その真ん丸な瞳で私の目をじっと見つめ始めた。 その瞳に見つめられて、私は何だか自分が丸裸にされているような気持ちになってしまった。「あぁ、この子の前ではどんなに表面的に取り繕っても、外見を着飾ったとしても意味はないんだな」とわかった。きっと彼らはすべてお見通しだと感じたのだ。 曇りのない清らかな瞳には、だからこそまっすぐ質に迫ってくるような強さがあった。言葉や装飾などものともせず、私の中心まで一直線にたどり着いてくるようなまっす

    赤ちゃんの瞳に耐えうる生き方を。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/11/02
    普段の何気ない出来事から、何を掴めるのかで人生の充実度が変わってくると思います。こなつさんの今回のエピソードと考え、素敵です。
  • 「根拠のない自信」は最強かもしれない。 - 窓辺のレモンティ

    以前、好きなバンドのライブを観に行ったときのこと。ボーカルの人は、まだ無名だった自身の若い頃を振り返ってこう言った。 「夢だけは持っていましたね、あと根拠のない自信(笑)」 人は笑って、会場も笑って、もちろん私も笑っていたのだけれど、「根拠のない自信」というのは、実は最強なのかもしれないと後から思った。確か、心屋仁之助さんのでも読んだことがある。 「根拠のある自信」だと、その根拠が無くなってしまったら自信も消滅してしまう。いわば、条件付きの自信なのだ。 昨日も少し書いたのだけれど、昔、私が頑張っていたのは、心から楽しんでやっていたわけではない。頑張って結果を出すことで、何とか周囲からの評価を得て、承認の手ごたえを感じ、自分が少しでも価値のある存在だということを辛うじて確かめるような、そんな作業だったのだと思う。 思い返してみれば、どこかで勝手に思い込んでしまった自己肯定感の低さというか

    「根拠のない自信」は最強かもしれない。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/08/05
    私も自身のブログの「子供の人生を本気で応援したい親ができること」という記事の中で、自分自身の存在価値を疑わない人は最強だということを書きました。こなつさんのこの記事も共感しかありません!
  • 一番大切なのは、自分の心だったのに。 - 窓辺のレモンティ

    以前の私は、「努力して結果を出して成長していく」ことが全てだと思っていた。頑張ることしか知らなかったのだ。自ら進んで困難な道を選び、辛くても苦しくても耐えて、乗り越えていった。 だがある時ついに限界に達してしまい、心身ともにバランスを崩してしまった。それは当につらい日々だった。けれどこの経験で、今までなら絶対に変えることも、ましてや聞く耳も持たなかったであろう考え方にシフトすることができた。 価値観が大きく変わった。自分を大切にすること。人生を楽しむこと。頑張りすぎないこと。バランスをとること。空間や余裕、遊びの重要性も初めて知ることができたのだ。 何を一番大切にすべきなのかよく見えた。心と体の健康、自分を大切にして、これからは楽しく生きていこうと決めた。 しかし考え方の癖は染みついているのか、知らず知らずのうちにまた頑張ってしまっていた。周囲からの期待に応え、求められている役割を演じ、

    一番大切なのは、自分の心だったのに。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/08/03
    いつも考えるきっかけを頂いてます。まさに、心と身体に不調が出るときって「生き方がズレている」というサインですよね。
  • 「いのち」は本当に自分のものか? - 窓辺のレモンティ

    恥ずかしながら、私は今まで「自分の命(や身体)は自分のもの」だと当然のように思っていた。そう信じて疑わなかったのだ。しかし、「いま、働くということ」(大庭健著)というの中に、命の所有化について書かれた項目があり、はっとした。 著者は、市場社会の発達とともに命の所有化(私有化)に更なる拍車がかかっていると指摘している。 確かに、私たちは自分の意志で身体を動かすことができる。手を挙げたいと思えば挙げられるし、目を開けたり閉じたり、歩いたり走ったりすることも可能だ。また、究極的には自ら命を絶つこともできてしまう。そのため、身体も命も、自分の所有物であるかのように思ってしまいがちだ。 しかし、身体を自由に動かせると言っても、それはほんの一部に過ぎない。心臓の動きや内臓の働き、血液の循環など、ほとんどが自分の意思とは無関係に動いている。自分ではコントロールできないものが、生命の維持の根幹を担ってい

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    oyakostep
    oyakostep 2017/07/31
  • 「会社の歯車」という言葉には二つの意味がある。 - 窓辺のレモンティ

    「会社の歯車になりたくない」という言葉は、今でもよく使われる。それに対して「歯車だって良いではないか、歯車になるのは立派なことだ」という意見も聞かれる。 以前からこのような会話がなされる度、私は引っかかるものを感じていた。その理由が、何となくわかったような気がする。この会話は成立していないのではないか。そもそも、前提となる「歯車」の定義がお互いに異なっているような気がするのだ。 「歯車」には二つの意味があるように思える。 一つは、簡単に言えば「全体の中の一部である」という意味だ。辞書通りの意味では、歯車は機械に動力を伝えるための大事な要素の一つである。同様に考えると、「会社の歯車」とは、会社という大きな組織を動かす上で、構成員の一人として無くてはならない役割の一つを担うこと、となる。 「歯車だって良いじゃないか」「歯車になることはむしろ立派なことだ」と言う場合には、たいていこちらの意味だと

    「会社の歯車」という言葉には二つの意味がある。 - 窓辺のレモンティ
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    oyakostep 2017/07/29
  • 「自分を大事にすること」は誰も教えてくれない。 - 窓辺のレモンティ

    相手の気持ちを考える、人に優しくする、他人を尊重する、相手の立場に立って物事を考える…等々。これは私たちが幼い頃からずっと教えられてきたことだ。 コミュニティや社会の中で他者と生きるためには、自分の意見だけ通そうとしたり、わがまま放題に振る舞ったりしてはいけない。協調性を養い、スムーズな人間関係を築くためにも、これらはもちろん必要なことだと思う。 こうして「他者の尊重」は当然のように共通の価値観として私たちの中に深く根付いている。一方で、「自分を大事にする」ことはどうだろうか。「自分を大事にしなさい」とは、案外教えられないように思う。 思えば私もいつも誰かに気を遣い、相手のことを考えて、その場にふさわしい言動を心掛けていた。そのうちに「相手がどう感じるか」、「相手にとって好ましいことか」、「人にどう思われるか」ばかり気にしてしまい、いつの間にかその判断基準は「自分」を上回るようになってしま

    「自分を大事にすること」は誰も教えてくれない。 - 窓辺のレモンティ
    oyakostep
    oyakostep 2017/07/27
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