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ブックマーク / diary.lylyco.com (12)

  • ネットはオタクの遊び場で終わってしまうのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ・ 「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠 いまどき「ネットが面白い」なんて人はまったくどうかしている。 まあ、半分くらいは好い意味で、だ。なぜなら彼らは、インターネットという社会インフラを「趣味」にしてしまった人たちだからだ。いってみれば、鉄オタにとっての鉄道みたいなものだろうか。一般人にとってのネットや鉄道は、もはや面白いとか面白くないとかいう興味の対象ではない。環境に近いものになってしまった。 もちろん、「ネットがつまらないのは自己責任!」というのも正論だと思う。そして、「ネット」の部分はあらゆるものに置き換え可能だ。ぼくが鉄道を愉しめないのは、ぼくのせいに違いない。たしかにぼくは、鉄道を愉しむための努力をしてこなかった。ネットも同じなんだとすれば、それはネットが高度に訓練されたネットオタクでなければ愉しめない、ただのありふれた風景になってしまったということ

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2013/07/27
    (言及記事をざっと書いてみたら、なぜか辿り着いた文章が「ボンクラおじさんになろうぜ」だったので、廃棄しようか迷い中)
  • 糞を拾って人に投げつけるのは、もうやめようと思う|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ネットは広大で、そして、ゴミだらけだ。 ぼくもこうして、多くの人にとってのゴミを生産している。ネットは広大で、そして、寛容だ。そんな夢の島から、宝物を見つけ出すのは難しい。ぼくはズボラな人間だから、自分で探し歩くのは苦手だ。だから、はてなブックマークなんかを眺めている。もちろん、はてブの人たちはぼくではない。当然、人気エントリーも宝物ばかりというわけにはいかない。やっぱりほとんどはゴミで、たまに面白い玩具が混じっていたりする程度だ。拾ってみたらゴミだった、ということも少なくない。それでも、ほどよく楽しんできた。どうせ、宝物ばかりたくさんあっても、すべてを味わっている暇はないのだから、ちょうどいいともいえた。それが最近、宝物かな、と思って伸ばした手にべったりとうんこがついている、そういうことが増えた。まあ、ぼくが好みに煩くなっただけ、ということはあるかもしれない。それにしても、こんな一等地に

  • 目からウロコ!あなたの文章がツマラナイ5つの理由と処方箋|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    最近、頭髪が斑になるほどツマラナイ文章が増えた。 主にはブログやそれに類する文章の話だ。暇つぶしのファイナルウエポン、心の隙間を抉じ開ける脳髄のゴミ捨て場、我らの愛するウェブ世界がこんな有様では大変に困る。誤解してはイケナイ。ツマラナイ文章が増えたといっても、面白い文章が減ったなどといっているのではない。当然、どちらも増えている。だがしかし、だ。指数関数的に増え続ける「ツマラナイ文章」に対して、増えてもせいぜい主婦のヘソクリ程度でしかない「面白い文章」はあまりに非力である。ことソーシャルがきっかけで目にする文章のツマラナサは格別だ。どうやら無粋な文章作法の氾濫がことここに至って効いてきているらしい。では、具体的にどんな文章がツマラナイのか。 1. タイトル負けが酷すぎて殺意を覚える たとえばこの記事だ。セオリー通りに飾り付けられたタイトルが実に白々しい。目からウロコ!…などと下手なコピーラ

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2012/11/16
    ビタミンの錠剤や栄養の塊みたいなものを食事と呼ぶことができないのと同じように、機能だけに特化したマニュアルを読み物と呼ぶことはできない、とは思う。
  • 「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    について自らのスタンスを表明する人は多い。 ぼく自身もいつかやらかしたような気がするし、わりと誰しも通る道なのかもしれない。いうこともだいたい決まっている。タイトルはその典型。顕在化するパターンにまで典型があって、まず、読書量を自慢気に発表しちゃうウッカリ者が現れる。それが100冊だろうが500冊だろうが人にとっては「つい発表したくなっちゃうような読書量」だったのだから「へえ、凄いね」といって印象に残ったの話でも訊いてやればいいのである。が、よほど腹に据えかねるのか、今度は水を差すウッカリ者が現れる。曰く「読書は量より質だ」或いは「書を捨てよ、町へ出よう」 をたくさん読むのは悪いことじゃない。上には上がいるとわかっていても、初めて100冊に達した年の瀬につい吹聴したくなる気持ちはよくわかる。書店に平積のミステリやラノベやビジネス書や自己啓発書、雨後の筍のごとくに湧いて出る新書など多

  • 婚活男女が求めているものは結婚ではない何か|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    周囲でもリアルに婚活やそれに類する話を耳にするようになって久しい。 ずっと不思議に思っていた。いまこの時代、この国の一般庶民にどうして「結婚」なんてものが必要なんだろう、と。生活を伴にしたい異性が既にいるというのならまだ理解る。男女が一緒に暮らすなら制度的に結婚してしまうのがいちばん「楽」だろうと思うからだ。逆にいえば、結婚になんてその程度の意味しか見出せない。そういう人間が増えた。だから、見合いなんて結婚促進制度は廃れ、既婚率が激減しているんだと思っていた。が、思い違いをしていたらしい。切実そうな顔をして婚活に励む知人たちの話を見聞きしていると、もはや考えを改めざるを得ない。 そもそも既婚率が高かった時代の結婚の多くは強制に近いものだったはずだ。一から自分で相手を選んで自分のタイミングで結婚したなんてカップルはそう多くなかったろうと思う。つまり、既婚率低下の直接的な原因は、親族手配による

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2011/12/28
    なるほど、「自分探しの一環としての婚活」か。これは、あると思う。
  • まやかしではない「真の結果平等」を夢想する|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人間が求める「結果」とは何か? 人による。それが最終的な回答だろう。たとえば、共産主義的なものを一種の「結果平等」と捉える人がいる。ありていにいえば、商才ある人もそうでない人も頑張った人もそうでない人も、みんな押し並べて平等に富が分配される。そういうものを「結果平等」とする考え方である。そうだろうか。違うだろう、とぼくは思う。それはただの「機会平等」である。何故なら、そのとき分配されるのは、数多ある生きる資源のひとつであって目的ではないからだ。それをどう使ってどんな結果を得るかが問題なのである。その意味で「富」は「知識」やなんかと同じレイヤーに属する。 いわゆる「機会平等」というのは、より良く生きるための「条件」をできる限り平均化することで、各自が人生におけるなにがしかの成果を「平等に」目指せる環境を作ろうという考え方だろう。そこから先は、個々人の才能や努力や運で各々目指す「結果」を手に入

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2009/06/04
    なるほど、確かに夢想だ。人類絶滅によってこの結果平等は成し遂げられるだろう。そうでなくとも、何かの間違いでこの手の平等に近づくほど、今度はニヒリズムに追いかけ回されるだろう。
  • ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「リア充」という言葉、案外、廃れない。 どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。 金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこ

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2009/04/16
    この文章は、リア充という言葉に仮託された理想や要求水準が高すぎる印象が強い。このニヒリズムにも似た感覚も、高すぎる執着が充たされないことに対する防衛なんじゃないかとも思ったり。
  • 生まれそこなった新世代としてのオタク|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自信のアウトソースは服オタの専売でも、近年の傾向でも、たぶん、ない。 ・服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由 - シロクマの屑籠(汎適所属) リンク先で指摘されている「自信の喪失⇒自己否定」という流れをみて、ぼくが最初に感じたのは奇妙な懐かしさだった。この手のアイデンティティクライシスの物語には見覚えがある。それはたとえば、こんな物語だ。その青年は有名一流大学を出て、有名一流企業に就職することを至上目標としていた。弛まぬ努力は実り、目標は叶う。彼にとって、「その企業にいる自分」がすべてである。自覚の有無に関わらず、だ。この場合、服オタにとっての贔屓ブランドは、学歴や所属企業に置き換えられる。しかも、時間をかけて手に入れた分、より取り返しのつかないものとして。 そういう感覚は、おそらく、その辺にごく普通にあった。価値観が多様化したといわれる現在でさえ、完全になくなったとは思えない

  • 非モテの強気が招く悲劇|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    提言というのはこれくらい単純な方がいい。 ・非モテが間違っている、たった1つの前提 - タケルンバ卿日記 「弱気は最大の敵」とは、汎用性の高そうな言葉である。けれども、と考えてしまう。非モテのこじれ具合が「自分の過小評価」くらいならいい。が、重症の非モテというのは、ほとんど「対人恐怖」や「人間不信」の域に達しているように思える。それがリアルな経験に基づくものなのか、ネガティブな妄想を逞しくしすぎた結果なのかは分からない。ただ、彼らにとって「強気の場合は、相手に好意があれば両思いになって結ばれやすい。相手に好意がなくても、それは単なる片思いなので、それ以上のダメージはない。」は真理ではないだろう。ダメージはある。多分にある。 同じクラスに好きな子ができる。タケルンバさんもいっていたじゃないか(いや、いっていたのは津田恒美か、うむ、そんなことはどっちでもいい!)、そうだ、「弱気は最大の敵」だ!

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2008/10/30
    コメント欄のやりとりが、問題の一端を正確に射抜いている。
  • 軽度の非モテが無意識に重度の非モテを追い詰める悲劇|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    この人が何故こんな義憤に駆られているのか分からない。件の非モテ脱出法は極論だろう。 ・非モテに自己責任論はなじまない ぼくは以前、美容院に行けというエントリーを書いた。けれどもそれは、異性と普通に話せて、友だちになれて、家にまで呼ばれて、あまつさえ告白とかできちゃうような人に向けて書いたわけではない。匿名氏のように異性を含む他者と普通にコミュニケーションが取れる人を非モテとはいわない。まあ、確固とした定義のある言葉じゃないから、そういい切っては語弊があるかもしれない。いずれ、非モテだとしても軽度だ。ただキョドらずに告白することすら困難で、でも切実に彼女や彼氏が欲しい。そんな人に向けられたアドバイスに目くじらを立てる理由が分からない。 別に脱非モテ論が素晴らしいというつもりはまったくない。くだらない人にはこの上なくくだらないだろう。ただ、その拒絶反応の示し方が少し気になる。もしかすると、自分

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2008/07/15
    全体としては概ね賛成。ただ、最後の一文のレトリックを読んでいて、この場合重度の非モテとは何で、軽度の非モテとは何なのか、少し目眩を感じた。いや、文意は分かるんですけどね。
  • 匿名ダイアリーの自分語り=物語化という病|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    最近、こうした自分語りをはてな匿名ダイアリーで頻繁に見かける。 ・他人に興味を持つにはどうしたらいい? 過去の裏切り体験で他人への厚い壁を作ってしまった。よくある話すぎて失笑しそうになる。昨日取り上げた「勝ち組になれなかったこと」もそうだけれども、この手の自分語りは総じてこれ以上ないくらい陳腐だ。書き手の個別的な体験がまったく欠けている。誰かと別れるのも、誰かに裏切られるのも、誰かを裏切るもの、来は極めて個人的な体験のはずだ。ところが、こうした文章において、そうした個別性は一切排除されている。自分の体験を陳腐な物語に昇華し、客観化してしまっている。そこにあるのは、自虐的なナルシシズムと真情の籠もらないポエトリーだけだ。 もちろん、当人に表現力がないという問題はあろう。はっきりいえば、この種の文章のほとんどは丸きり紋切り型でつまらない。ただ、自分の物語をここまで陳腐化してしまうというのは、

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2008/07/10
    匿名ダイアリーの自分語りに留まらず、TVドラマ、携帯小説、ラノベ、などなど結構な領域で、意外とテンプレートを「上手に」消費できている僕達がいる。「語る」前の段階で、既に僕達はテンプレ漬け、というか。
  • 他人の弱さを不快に感じる人の弱さ|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    匿名ダイアリーに自ら不寛容を暴露する記事をよく見かける。 ・高校時代の友達(だった人)の話(※誤ってはてブにリンクしていたため修正) ・無い内定の友人を見下してしまう自分が卑しい ひとつ目のリンク先は他を否定する話、ふたつ目は他を否定する自分を否定する(かに見える)話である。自分はそれなりに努力をしてそれなりの結果を出した。友人(?)はさしたる努力もせずに怠惰と自己正当化の海に溺れるばかりである。どちらもそういう視点で書かれたエントリーに見える。まあ、若さ故の不寛容といえばそれまでなのだけれど、今時の若い人たちがこうした旧弊な価値観をしっかりと受け継ぎ、かつナイーブに反応してみせていることに驚く。これだけネット上に様々な人生観が溢れていても、自分の人生を相対化するのは難しいらしい。 めでたく被雇用者への道を歩み始めた増田氏の気持ちや深慮遠謀を友人らが解しないのと同様に、増田氏だって被雇用者

    p_shirokuma
    p_shirokuma 2008/06/24
    投影大戦。
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