■書評 『映像という神秘と快楽――〈世界〉と触れ合うためのレッスン』 そして/あるいは長谷正人論 藤井 仁子 Jinshi FUJII すでに『悪循環の現象学――「行為の意図せざる結果」をめぐって』(ハーベスト社、1991年)という「社会学者」としての単著で、グルーチョ・マルクスのある台詞をエピグラフに引用してもいた長谷正人氏が、しかし「映画研究者」としてその存在を広く世間に認知せしめたのは、いうまでもなく、論文「検閲の誕生――大正期の警察と活動写真」(『映像学』53号[1994年]、124-138頁)によってであった。大正期における映画検閲制度の確立を、興行の場からライヴ・パフォーマンス性が駆逐されてゆく過程として鮮やかに描き出したこの論文は、奇しくも同時期に同様のテーマを取り上げたアーロン・ジェロー氏による弁士論(「弁士の新しい顔――大正期の日本映画を定義する」[若尾佳世乃訳]『映画学