岸田文雄首相は31日、東京・八重洲の書店を訪れ、裕子夫人とおよそ1時間かけて書籍を15冊ほど選んだ。ロシアの作家ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」1~5巻のほか、落合陽一氏の「忘れる読書」や和田秀樹
2023: The Future Has Arrived: The End of 500 Years of Conquistador Civilisation | The Vineyard of the Saker バーチュシカ(The Saker寄稿)著: 31/12/2022 序文 西欧の優越コンプレックス、すなわち自己正当化された支配と搾取という病は、第一次「十字軍」(1096-1099年)に始まったとよく言われる。技術的にはその通りなのだが、それ以前にも「プレ十字軍」と呼ぶべき出来事があった。例えば、782年にフランク王国の野蛮な指導者シャルルマーニュが、ベルデンで4,500人のザクセン人を虐殺した事件がある。この大虐殺は、フランク・ヨーロッパの基礎となり、今日でもEUの嘘の核となって残っている。シャルルマーニュのヨーロッパが崩壊し、統合の時期を経て、200年後、まさに第一次十字軍
A Pox On PAx Americana - A Son of the New American Revolution ラリー・ジョンソン著:29/12/2022 第二次世界大戦後、冷戦が始まり、米国が世界の覇権を握った歴史的な時代に生きていることを不思議に思ったことはないだろうか。あなたは今、歴史上画期的な瞬間に生きているのです。それは、危険と危機、そして国際秩序の根本的な再編成をはらんでいる。米国が、南部の農園のベンおじさんのように、サウジアラビアやカタールのような国々に命令を下すことができた時代は終わったのだ。 米国は、映画『ダウンフォール』で描かれたヒトラーになろうとしている。もはやその命令を実行する能力のない架空の軍隊に命令を出すのである。 youtu.be 私は、米国が1945年5月の第三帝国のような崩壊の危機に瀕しているとは言わないが、米国が好き勝手に他国を侵略し、米国の
たとえその言動が気にくわないとしても、その人を「悪魔」(サタン)呼ばわりするのは賢明とはいえない。ウクライナ国家安全保障会議のオレクシー・ダニロフ書記官は28日、ウクライナ正教会指導部に対し、「モスクワから距離を置くように。ロシアと関係がないのならば、プーチン(大統領)を悪魔と呼ぶべきだ」と要求したのだ。 ウクライナ正教会関係者との内々の話し合いの場で要求したのではなく、テレビのカメラの前でそのように主張したのだ。 話を進める前に、ウクライナ正教会の状況を簡単にまとめる。ウクライナ正教会は本来、ソ連共産党政権時代からロシア正教会の管轄下にあったが、2018年12月、ウクライナ正教会はロシア正教会から離脱し独立した。その後、ウクライナ正教会と独立正教会が統合して現在の「ウクライナ正教会」(OKU)が誕生した。 ロシア軍のウクライナ侵攻を受け、キーウ総主教庁に属する正教会聖職者(OKU)とモス
こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。 今回はアレクサンドル・ソルジェニーツィンの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。 学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。 アレクサンドル・ソルジェニーツィン 歴史観・政治観キリスト教、帝政ロシア、ロシアのナショナリズムについてウィリアム・ハリソンによれば、ソルジェニーツィンは「反動主義者」であり、ソ連国家がロシアとウクライナの伝統文化を「抑圧」したと主張し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシを含むスラブ統一国家の創設を求め、ウクライナの独立に激しく反対していた人物である。ウクライナ独立に否定的な彼の意見は、年々過激になっ
こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。 今回はアレクサンドル・ソルジェニーツィンの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。 学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。 アレクサンドル・ソルジェニーツィン アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(1918年12月11日 - 2008年8月3日)は、ロシアの小説家である。ソ連の反体制者として最も有名な人物の一人であり、共産主義を率直に批判し、ソ連における政治的抑圧、特に収容所制度(※グラーグ体制)について世界的に認知させることに貢献した。 ソ連が1920年代に行った反宗教運動に反抗し、ロシア正教会の敬虔な
А.Ю. Алексеев Золото скифских царей в собрании Эрмитажа. A.Yu. Alekseev ”Gold of the Scythian kings in the collection of the Hermitage” 意味不明のところもありますが、ロシア語から日本語に自動翻訳してみました。 初期の鉄の時代(紀元前1000年)は、ギリシャ、ペルシャ、中国などの偉大な世界文明の歴史だけでなく、北部の隣人(古代または初期の遊牧民)の「黄金時代」であることが判明しました。紀元前1000年の特別な移動式牧歌的経済としての遊牧民は、ユーラシアの草原と丘陵地帯の数千キロメートルのベルトを素早く広く広げ、東の中央アジアから西の中央ヨーロッパに巨大な平野空間を密に引っ張っりました。次の世紀にこれらの最初の遊牧民、特にスキタイ人が世界の歴史的な場からすでに
金城 夏子(きんじょう なつこ、1916年(戸籍上は1915年6月20日) - 1954年8月8日)は沖縄県出身の日本の企業家。 終戦時は台湾に住み、その後は沖縄県に戻った。戦後沖縄の混乱期、米軍軍政下における密貿易業を営み、沖縄密貿易の女王と称された。 沖縄戦により多くの戸籍が消失したため戸籍は正確ではないが、現存する戸籍では、1915年6月20日沖縄県島尻郡糸満町に出生とある。同年輩で従姉にあたる新城秋子は、夏子は1916年鹿児島県徳之島生まれとし、夏子自身も1916年と言っていた。父は宮城亀。母は宮城ジルであるが、母は夏子出産後亡くなる。家族の職業は漁業[1]。1931年、小学校卒業後一家は糸満に移ったが夏子は徳之島に残った。18歳の時、兄や姉を頼ってフィリピンのマニラに渡った。1938年海関係の仕事をしている石垣島の金城常次郎と石垣島で写真見合いで当日結婚。直ちにマニラに帰る[2]
西洋世界に挑んだ傑物 チンギス・ハンは生前、自分の肖像画を描くことを許さなかった。 そんなチンギス・ハンの「魂」が消失したのは1937年のことだ。この年、スターリンの軍隊がモンゴル人数万人を殺戮し、モンゴル領内の寺院を次々に破壊した。 この「チンギス・ハンの魂」とは、スルデと呼ばれる彼の黒い馬の毛で作られた霊幡のこと。彼はかつてこの霊幡を掲げ、モンゴルの男たちを戦場に導いたのである。そのスルデは何世紀もの間、シャンハ山地の僧院でうやうやしく祀られていたが、1937年にウランバートルに持ち出されて以来、どこにあるのかわからなくなってしまった。 米国人学者ジャック・ウェザーフォードの快著『チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み』にそんな話が記されている。ソ連崩壊後のモンゴルで遺跡の調査をしたこの米国人学者が注目するのは、イフ・ホリグという1000平方キロメートルの区域だ。チンギス・ハンは生誕地に近
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