原発事故の賠償責任を定めた原子力損害賠償法の見直しが進まない。原発で重大な事故が起きると、膨大な損害賠償責任が生じる。電力会社に全責任を負わせる現行制度では立ちゆかないことは、東京電力福島第1原発の事故ではっきりした。 原発の稼働を認めるのであれば、法改正で国の責任を明確にし、被害者救済に万全を期す制度づくりを急ぐべきだ。 1961年に制定された原賠法は、過失の有無にかかわらず電力会社が損害賠償の全責任を負うとしている。「異常に巨大な天災地変」の場合に限り、責任を免れる条項があるが、その定義はあいまいで、今回の事故でも適用の是非が問題になった。国の賠償責任については規定されていない。 重大事故が起きれば、賠償額が巨額になるため、電力会社の破綻は必至だ。それでも、国は賠償責任を負わないのだから、賠償主体がなくなってしまう。これでは被害者は救われない。「原発安全神話」を前提にした現行制度の欠陥
核のゴミ捨て場を選定中の細野豪志環境相と横光克彦副環境相が同時に交代した。無責任と言えば無責任だが、問うべき本質は人事ではない。 核のゴミをどこに保管するのか。先例通り、札束を積んで田舎に埋めるのか。海外に捨てるのか。どちらもダメなら、電気の大消費地、つまり国内の都市部に持ち込むしかないのではないか。受益者がリスクも引き受ける。原発依存を選ぶなら、そもそも、そういう運営ルールであるべきではないか。 この根源的な問いに真っ正面から挑んだ映画がある。「東京原発」(02年、山川元(げん)監督、役所広司主演)である。 役所演ずる天馬(てんま)東京都知事は人気とヒラメキが身上だ。ある日、副知事と局長を集め「東京に原発を誘致する」と言い出した。「すぐ記者会見だ」「いや、よく検討を」と議論沸騰の会議室。東大教授と政府の原子力安全委員も登場、3・11後の今日ではよく知られた原発政策の問題点を毒気たっぷりに
「脱原発依存」の議論に伴い、原発施設の解体・撤去・除染といった廃炉の本格化を求める声が強まっている。ただ廃炉自体は、原子力への依存度を仮に維持したとしても、設備の老朽化により当面、確実に増えていくものだ。安全かつ効率的に行う技術やノウハウを国として意識的に高め、蓄積していく必要がある。 国内では「運転開始から40年で廃炉」を原則とすることになった。一方、世界には現在、400基を超える原子炉が運転中で、今後、先進国を中心に“高齢炉”が次々と寿命を迎える。まさにこれから、国内外で本格的な廃炉時代に入るのだ。 さて、その時代への備えが日本にできているだろうか。 国内の商業炉で実際に廃炉工程にあるのは、今のところ日本原子力発電の東海発電所のみである。1966年に運転を開始した日本初の商業用原発だ。98年に運転を終え、01年に廃炉作業が始まった。計画では、20年に完了することになっている。 だが、大
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