宮本大人のミヤモメモ id:hrhtm1970:20061124:1164301675 うちのブログをお読みの方は、かなりの割合ですでにリンク先の宮本君のブログをお読みだと思いますが、うちの更新はチェックしていても宮本君のほうはしていない方もおられると思うので、触れておきます。 などともってまわった物言いをしているのも、問題の本のもととなった、この「博士論文」それ自体を一部とはいえはじめて読み、言葉を失ったからです。宮本君から話はきいていたけれど、ここまでひどいとは……。いや、しかし、ホント、すげえな。とにかく、読んでみてください。宮本君もよくここまで丁寧に扱ったものです。それほど、ひとを呆れさせ、まともに取り合う気をなくさせる代物です。 とはいえ、宮本君の文中にもぼくの名前が出ているので、萎え萎えになる気持ちをどうにかしてひとつだけ言及しておこうと思います。竹内一郎氏が、現在の日本のマン
わたし的棚ぼた一万円選書 急に千葉さんに手渡された封筒、開けてみたら1万円札が1枚。何ごとかと思えば、同期の出張を代わったお礼をもらったらしい。 「葵はワンオペで育児してくれたから」と半分わけてくれました。 泡銭の1万円 これはもう、わたし的1万円選書をしろという思し召しなのでは……
http://d.hatena.ne.jp/REDDEVILS/20061121/p2 ひと言つけ加えさせていただくなら、とんねるずが人気絶頂となる80年代後半は、よくも悪くもマスコミ業に対する憧れをマスコミが煽るだけ煽った時期でもあります。 まあ、その前には青島幸男とかもいたけど、放送作家がクローズアップされた時期でもあり、コピーライターがたいへんにもてはやされた時期でもある。あとスタイリストとか。 それらは「裏方」とされていて、それまでは表面に出てこない人たちだった。 そういうものも含めての「ギョーカイ」であり、やや突き放した言い方をするとそれに積極的に「価値付け」を行ったと言えます。 その辺は、秋元康の戦略でもあったんでしょう。 そして、とんねるずのギャグが嫌われる場合、それは「楽屋オチかどうか」ではなくて「ギョーカイ」というものに価値を置いたギャグだから、ということは言えますね。
『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』は、著者の「あとがき」によれば、「日下(翠)さんの助言と励ましによって成った学位論文を平易に書き改めたもの」であり、「当初のプランから本文は約三分の二、図版は約二〇分の一に削ってある」と言われます。そしてその後に竹内氏はこう付け加えています。「だが、研究の精神は削っていない」。 前回のエントリでは、元になった学位論文もまた、博士論文の水準にはほど遠いものであるという前提で話を進めてしまいましたが、もし『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』と元の学位論文の間にかなりの違いがあるとすれば、出版されたヴァージョンがいかにひどいものであれ、博士論文の方はそれほどでもなかったのでは、という疑問を持たれた方もおられるのではないかと思います。今回は、その点について検証していきたいと思います。 この本を通読して上記の「あとがき」に接したとき、私が抱いた淡い期待は、この本の
いきなり話が敗戦後になる訳ですが なんか、心中察するような物が帰りの電車のドア上の広告のところに挟んであったのですよ。なんか、人間つらい事があると優しくなれるんだなと思って、少し敗戦のショックが和らいだ一幕(こんなのにカメラを向けてる俺も俺だが) で、話は戻りますが、なんか需要がありそうなので。 なんかね、ボーイズマッチが始まる前の開門40分くらいの出来事でしたっけ。逆側ではアッパースタンドのアーチに長ーいWe are Diamondsの歌詞のダンマクを張ってて、『やっぱでかいスタジアムをホームに持つってのも大変だよね』とか思ってたその逆で。何でしょうねこの落差 まあ、レッズに取っちゃビジターなんぞ無くても動員できるし、いなくても構わない、言うなれば『招かざる客』だってのは重々承知ですが、扱い云々の前にこれはない。ってかさいたま市の消防条例(だったっけ?)的にもこれはない。当然あのゲ
僕が考える笑いの本質というのは、格差である。状況の格差、人間の格差、事物の格差などなど……笑いの多くは、格差によって生まれている。そんな格差による笑いの一つに、差別がある。差別による笑いはかなり笑いとしては重要な格差らしい。作家の故・中島らも氏も、自身の著作の中で「笑いとは差別だ」と言い切っている。それから氏は、こうも書き連ねている。 「村に一人はバカがいる」。昔の村落共同体にはバカがいた。(中略) しかし近代社会においてバカは姿を消した。バカは然るべきところに隔離されたのだ。ではそのバカの役割を現在荷っているのは誰か。それは「テレビ」である。(中島らも「何がおかしい」より) 押井守が昭和史をパロディしたアニメ映画『立喰師列伝』に、「戦後を感じさせるものは全て排除された」というくだりがあったが、中島氏の言う“村に一人はいるバカ”も、その戦後的なものとして排除されたのかもしれない……まあ、そ
サッカーJ+Vol5でぼくが書きたかったのは、既存メディアの、おもしろさありきの行きすぎた報道にグロテスクさを感じたから。 エンターブレイン社に転載の確認を取っていないが、ここは独断でJ+に書いた、マスメディアが「報道の名のもとに行った」イエロージャーナリズムの仕組みについての部分を転載する。 事件が発覚した後の報道のからくりはこうだ。ベランダ側で採取された指紋を根拠にマスコミ対応した捜査員が「外壁をよじ登ったのかもね」などと軽口を叩く。もちろん室内からも指紋は採取されているはずだが、そんな事はお構いなし。「おもしろければいい」のである。4階のマンションの外壁をよじ登るという原稿はS選手が移籍加入直後だったことも手伝って、人間関係の希薄な番記者たちによって紙面に載ることになる。もし仮に読者からの抗議が来ても、捜査員の口から出た示唆をベースにしているからまるっきりの嘘ではない。そうやって曖昧
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