1945年8月9日、13歳だった私は、爆心地から3・2キロ離れた自宅の2階で被爆しました。気を失った直後、爆風で飛んできた大きなガラス戸の下敷きになりました。幸いに奇跡的に無傷で助かりました。 3日後のちょうど今ごろ、私は、家屋が跡形もなく消滅し、黒焦げの死体が散乱するこの丘の上を歩き回っていました。探し当てた父方の伯母の家屋跡には、黒焦げになった伯母たち家族の遺体が転がっていました。そのちょうど同じ時、丘の下の上野町では、3日間生きながらえた母方の伯母の遺体をトタンの板に載せて焼いていました。焼き終えた人の形をとどめた遺骨を見たとき、優しかった伯母の姿が目に浮かび、その場に泣き崩れました。原爆により身内5人の命が一挙に奪われました。この日一日、私が目撃した浦上地帯の地獄の惨状を、私の脳裏から消し去ることはできません。 原爆は全く無差別に、短時日に、大量の人々の命を奪い、傷つけました。そし
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