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レトリックに関するpopoiのブックマーク (4)

  • 国民って言い方やめましょうよ、市民、って言おうよ - c71の一日

    国民、ってコールしていると聞いた。 国民の言葉のどこがだめなの?と思う人がいると思う。 日には、たくさんの日国籍じゃない人が住んでいる。 仕事もしている。税金も納めている。あんまり知られていないことだけど。 そして、屈辱的なことに、彼らには、選挙権がない。 国民という言葉は、人を分断する。日には外国籍の人がたくさん住んでいて、たぶん、日に骨を埋める人たちが、国籍を持っていない場合が多いのだった。 日語だって話せて、日語しか話せない人だっている。 そういう人を、分断したら、だめでしょう。 戦争はみんなにかかってくることだから。 法律基礎論や憲法概論に、「市民」って言い方で載っていたことに、当時は驚いたものだ。 市民?なんで?国民じゃダメなの? でも、そう、配慮してあったのだ。今思うとすごい。排除しないように、なっていたのだ。 教養は、人を排除しないために必要だ。 そして、教養は人

    国民って言い方やめましょうよ、市民、って言おうよ - c71の一日
    popoi
    popoi 2015/07/16
    #人権 の前国家性重視の立場でも、「国民」以外が良やも。違和感を表明の人は「一般市民」て言葉を使った事は無いの? リンカーンの例の演説は「人民」と訳されてるし、是もアリだが。
  • 「肉屋を支持する豚」というレトリック - Danas je lep dan.

    よく見かけるレトリックに,「肉屋を支持する豚」というものがあるけれど,これって揶揄表現としては問題大ありだと思うんだよなあ。 たとえばそれは「福祉切り捨ての新自由主義を支持するワープア層」とか「表現規制の自民党を支持するオタク」とかに向けられている言葉なわけだけれど,自分の私的利害と「あるべき社会像」が衝突したときに後者を優先させるのは,その「あるべき社会像」の内実を問わずに外形的基準のみで評価するならば,民主政国家における模範的市民と言い得るんじゃないのかと。 もちろん,全員が公共の福祉のために滅私奉公するのだ,といえばそれはファシズムになってしまうのだが,しかし公正な社会像をめぐる議論ではなるべく自分の私的利害は反映させない方がいいんじゃないのっていう点はたとえば無知のヴェール論とかでも論じられてきてるわけで,自分の私的利益度外視して各人の考えるあるべき社会像の実現にコミットする行為そ

    popoi
    popoi 2015/06/21
    所謂「チキンホーク」への斯様な揶揄の理由。戦争を煽る輩からの愚直な支持者達の離反に繋がる可能性。「肉屋を支持する豚」への揶揄も、「豚」が「公>私」と考えてる等に非ず、支持対象への誤認が有るなら有意では?
  • 「発言するならこのくらいのことは知ってて当然」、「先行研究くらい踏まえるべき」が、イマイチ通じない。

    中途半端な英語使いが英国からのニュースを東京で読み、あちこちふらふらうろうろ。時々嘘。 はてブ = http://b.hatena.ne.jp/nofrills Twitter = http://twitter.com/nofrills Twitterのログ = http://twilog.org/nofrills ◆「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月) ◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月) ◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください

    「発言するならこのくらいのことは知ってて当然」、「先行研究くらい踏まえるべき」が、イマイチ通じない。
    popoi
    popoi 2015/04/06
    メモ。 #東浩紀 #あずまん @hazuma #アイヌ
  • 「あいつらウゼえ」と思うのは誰か - 誰かの妄想・はてなブログ版

    東浩紀 @hazuma 抗議は重要だが、あいつらウゼえと思われたら終わりというのは、性的マイノリティ云々以前の問題で、ぼくは結局はそれを指摘しているにすぎません。 12:43pm 日曜 7月 15 webから http://mobile.twitter.com/hazuma/status/224559947092983810 この場合「あいつらウゼえ」と思っているのは東氏自身ですよね? そして主語を「私」ではなく「世間」と置き換えるために、「ぼくは結局はそれを指摘しているにすぎません。」と逃げを打つ。まるで「私」ではない第三者がそう思っているように。 マイノリティによる抗議はいつの時代もどんな要求もマジョリティによって「あいつらウゼえ」と思われてきました。マジョリティ・マイノリティは、必ずしも絶対的な頭数で決められるものではなく、言わば声の大きさによります。頭数で劣勢なマイノリティは、声を

    「あいつらウゼえ」と思うのは誰か - 誰かの妄想・はてなブログ版
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