ヤバイ!ヤバイ!なんだかネタ切れ気味なので、 新版オーラバトラー戦記を引っ張っ出してみた。 で、この新版についてですが、 大幅加筆を謳歌してるわりに、なんだか有難みが薄いというか、 正直細かいところなどどうでもいいという気もするのは正直なところなんです。 さらに、旧版の挿絵もオミットされて、内文しかいない味気ない仕様になってた。 1~3巻のブチはともかく(いや、結構好きだけど)、 4~11巻のファンタジー系挿絵の大家の加藤洋之&後藤啓介コンビのまで消えられて、 ファンにとって残念の限りです。 (角川ノベルズ版と角川スニーカー版両方持ってるキチの僕にとってそれほど痛くもないが) でも、その代わりに各巻ごとにまったく違う作家によっての口絵が追加され、 その人選もその当時各界で活躍してる人たちで、相当たるメンツが伺えます。 まあ、2008年の今から見ると、なんか微妙に旬が過ぎた人もいますが、 ど
前回はちょっとふざけて書いたが、円より子参議院議員らが提出したアダルトゲームの規制を求める請願について、なんかちょっと本当に腹がたってきた。 表現の自由と規制について、1つの意見として、漫画家のちばてつやさんが書いた 「表現の自由」考:『~と、ボクは思います!』 http://www.chibapro.co.jp/chibatetsuya.html を読んでみてください。胸に迫ります。 さて、今日は前回の流れで、マクロスシリーズへの私見です。 マクロスという作品のネームバリューと、一番最初のTVシリーズのクオリティの釣り合いが取れていないと、ぼくは前から思っていた。 最初のシリーズの『マクロス』は、作画レベルは今から25年前のアニメだと了解していても、酷い回がある。ちょっと、耐えられない回があります。 声優も、メインの2人が、ありていに言うと、ヘタです。 また、放映中に延長が決まったという
知ってるひとは知っている話で、この箱の中味を書いているのは小田切博とかいうひとなのだが、その人物が寄稿したので届いた『ユリイカ』6月号「マンガ批評の新展開」をざっと読んだら一冊全体で「表現論vs社会反映論」という図式のある特集になっていて、無責任にも「うへぇ」と思った。 まずこの特集巻頭に付された泉信行、夏目房之介との鼎談「マンガにおける視点と主体をめぐって」で宮本大人は2006年1月の『ユリイカ』での特集「マンガ批評の最前線」以降「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょうという流れが強かった」といっている。だが、実際には2006年以降出版されたマンガ関連の書籍で「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょう」というコンセプトの本だと明確にいえるのは私自身の『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』(NTT出版、2007年)と永山薫、昼間たかし『マンガ論争
私は某大手電機メーカーの関連会社にいたのだが、そこではトラブルを収拾するのに、課長があやまるか部長があやまるかあるいはもっと上が出てくるか、そういう所に微妙なランクがあった。客の方でもそれを充分承知していて「まあ、事業部長が出てきたから今回はこのへんで勘弁してやるか」みたいな感覚があった。時にはトラブルのレベルの認識が違っていて、こちらが工場長あたりでおさめようと思っても、むこうの方が「本社が出てこないと許さん」とか言って長引くこともある。しかし、重要なことは「誰それを出したらこれくらいの誠意」という座標軸みたいなものを両者が共有していたこと。くいちがいはあっても、同じものさしの上で「ここだ」「もうちょっと上だ」とやっているわけで、妥協や折衝は簡単である。 日本の会社には、こういう暗黙の価値観みたいなものがたくさんあって、これを理解すると一人前のサラリーマンとみなされる。そして、関連会社や
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