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九太夫の検索結果1 - 11 件 / 11件

  • 忠臣蔵 - Wikipedia

    「仮名手本忠臣蔵 夜討人数ノ内 堀辺弥津兵衛 堀辺弥次兵衛肖像」 歌川国貞画。 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。 なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある(赤穂事件参照)。 解説[編集] 江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発する。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅ

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    • 仮名手本忠臣蔵 - Wikipedia

      『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演[1]。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。通称『忠臣蔵』。赤穂事件を題材とするが、人物や時代背景を室町時代(南北朝時代)に仮託した内容となっている。先行作品を含むこの作品以外の赤穂事件を題材とした作品については、忠臣蔵参照。 大石内蔵助こと大石良雄の家紋「二つ巴」。この紋のことは『仮名手本忠臣蔵』二段目にも記されている。大石家の紋については暁鐘成著の『雲錦随筆』に詳しい[3]。 はじめに[編集] 江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年末(17

        仮名手本忠臣蔵 - Wikipedia
      • 鈴木正三 - Wikipedia

        この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年6月) 鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28日)[1])は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。本姓穂積氏で、三河鈴木氏の一族。通称九太夫、号を玄々軒、正三は法名である。法名に関しては、俗名の読み方を改めただけと言われているが、俗名は重三で、正三は筆名であるとの異説もある。 出家以前[編集] 天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市(旧足助町))にある則定城主、鈴木重次の長男として生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している

        • 評伝『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《上巻》

          梅原 逞 評伝『秀でた遺伝子』-佐久間象山と宮本家の人々- 元号が五月一日より、令和とする事が発表された。その発表され数日後の二〇一九年四月の初旬、今度は五年後に新貨幣に切り替える事を政府は発表した。紙幣を飾る人物は千円札に北里柴三郎氏、裏面は北斎の富嶽三十六景から、神奈川沖浪裏である。五千円札には津田梅子氏、裏面には藤の花。そして一万円札には渋沢栄一氏が選ばれ、その裏面は赤レンガの東京だそうだ。 奇しくも本書の評伝『秀でた遺伝子』の副題にある(・・・宮本家の人々)の遺伝子には、北斎と出会い二百枚余りの墨画を貰った松代藩勘定方の宮本慎助や、その慎助の孫となる宮本璋の方は、渋沢栄一の孫である敬三とは小学生の時から大学まで共に通った、竹馬の友と言う関係にあった。 更に慎助が再婚し、後妻となる「たか」との間に生まれた六男の宮本叔は、北里柴三郎等と共にペスト流行を阻止する為に香港に赴いた六名の、政

          • 油屋騒動 - Wikipedia

            油屋騒動(あぶらやそうどう)とは、江戸時代に伊勢国古市の遊廓で起きた殺傷事件のこと。俗に「古市十人斬り」とも呼ばれる。 解説[編集] 『伊勢参宮名所図会』巻之四より「古市」。古市遊廓の様子を描く。寛政9年刊行。 寛政8年5月4日(1796年6月9日)の深夜、伊勢古市の遊廓油屋において9人の者が刀で斬られ、そのうち3人が死亡する事件が起きた。その顛末は当時の史料では下記のように記載されている。 寛政8年5月4日の九つ半ごろ(午前1時すぎ頃)のこと[1]、宇治浦田町に住む医者の孫福斎(まごふくいつき、27歳)が油屋に立ち寄り、酒を出してくれと頼んだ。斎は前にも来たことのある客だったので、店側は座敷に通し茶汲み女(遊女)のお紺(16歳)に酒の相手をさせた。そのとき阿波の藍玉商人岩次郎(33歳)、孫三郎(35歳)、伊太郎(31歳)の三人が芝居見物の帰りにこの油屋に立ち寄ったが、その酒の相手に茶汲み

              油屋騒動 - Wikipedia
            • 謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(補遺・追加ヒーロー) - 💙💛しいたげられたしいたけ

              「謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー」は「まとめ」で完結のつもりで、それ以上の考察はありません。ただオリジナルを書いた以後も、いろいろ本を読んだりしたので、若干追加しておきたいことが生じました。 おさらいのため日本のヒーローの条件を再掲します。 「日本のヒーローの条件九か条」 その一…弟である その二…助っ人がいる その三…優男、まれに女装をする その四…西に強く東に弱い その五…悲恋 その六…敵は身内にいる その七…政治オンチ その八…最後には負ける その九…動物に関係がある スポンサーリンク 「日本のヒーロー」が完結したときのエントリーに、Pokopon さんより次のようなブコメをいただきました。ありがとうございます。大いに感謝ですm(_ _)m 謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(その7) - しいたげられたしいたけ 大石内蔵助>祖父の養子になったので、父の弟になった。助っ人は4

                謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(補遺・追加ヒーロー) - 💙💛しいたげられたしいたけ
              • 第44話落語「中村仲蔵」

                落語「中村仲蔵」の舞台を歩く 三遊亭円生の噺、「中村仲蔵」によると。 出し物「仮名手本忠臣蔵」という狂言が決まり、座頭と立作者が当時は役を決めたようで、立作者の金井三笑は芸の上でのけんかから仲蔵に五段目の斧定九郎一役だけといういじわるをふった。 当時の、この役は相中の役で、名題になった者がやるような役ではなく、こしらえも、縞の平袖というどてらで、これへ丸ごけの帯をしめて、山刀を差してわらじがけ、山岡頭巾をかぶって、のそのそ出てこようという、どう見ても山賊のこしらえ。 こしらえをあれこれ考えてみたがどうしても工夫がつかない。この上は神仏の御利益にすがるよりしかたがない。柳島の妙見様(右図 広重画 クリックすると大きくなります)に日参し、八日目の帰り道、法恩寺橋までくると、雨が降り出したので蕎麦屋へ。食いたくもない蕎麦をあつらえて、工夫をあれこれ考えている。と、「ゆるせッ」年頃三十四、五。月代

                • 大野知房 - Wikipedia

                  この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "大野知房" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月) 大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩浅野家の末席家老650石。『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。一方で優秀な経済官僚であったといわれる。通称は九郎兵衛(くろべえ)。 略歴[編集] 大野は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。 元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩の吉良義央への江戸城で

                  • 遠藤太津朗 - Wikipedia

                    遠藤 太津朗(えんどう たつお、1928年1月30日 - 2012年7月7日)は、日本の俳優。京都府京都市出身。本名は遠藤 辰雄(えんどう たつお)。1973年まで本名で出演。代表作は時代劇『銭形平次』、テレビドラマ『京都殺人案内』など。 来歴・人物[編集] 京都市下京区の生まれ。生家は製菓製造機の製造・販売業を営み、二男五女の長男。市立商務学校(現・京都市立松原中学校)を卒業後、家業を手伝いながら私立烏丸工業高校機械科夜間部に通う。少年時代から映画好きで、知人に誘われて地元青年会の演劇部に入ったことがきっかけで演劇熱が高まり、京都市の新劇の劇団に加わるが、家業を放り出して学校移動演劇や地方巡演に参加したため勘当された[1]。 1955年に新東宝ニューフェイス(スターレット)第4期に合格[脚注 1]。同期は本多一夫、万里昌代、三ツ矢歌子、原知佐子ら40人[2]。阿修羅三剣士』(1956)、

                      遠藤太津朗 - Wikipedia
                    • 島崎藤村 夜明け前 第一部上

                      木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危(あぶな)い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。

                      • 浄瑠璃を読もう 橋本治 - 本と奇妙な煙

                        『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望 第七:一力茶屋の場。 ロックな義太夫節 伏線が空回りする十段目 浄瑠璃を読もう 作者:橋本治 発売日: 2012/01/11 メディア: Kindle版 『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望 『仮名手本忠臣蔵』は江戸元禄の事件を暦応元年(1338年)に移した。足利尊氏の弟が京都から代参に来るのを高師直(=吉良上野介がモデル)が接待する。その下に塩冶判官(=浅野内匠頭)と桃井若狭助がいる。師直にさんざんいびられた若狭助がもう我慢ならんアイツ殺すと家老・加古川本蔵に告げ、慌てた本蔵は師直にどっさりつけ届け。師直に横恋慕された塩冶判官の妻・顔世は恋文を渡され、どう断ったらと思案に暮れる。 [本蔵の場面での]《忠義忠臣忠孝の》の《忠》の音は、鼠の鳴き声にひっかけてある。《白鼠》は福を呼ぶ縁起のいいものだということにもなっているが、ここは、本蔵の白髪頭にも引っかけている

                          浄瑠璃を読もう 橋本治 - 本と奇妙な煙
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