並び順

ブックマーク数

期間指定

  • から
  • まで

1 - 40 件 / 187件

新着順 人気順

傘をひらいて、空をの検索結果1 - 40 件 / 187件

タグ検索の該当結果が少ないため、タイトル検索結果を表示しています。

傘をひらいて、空をに関するエントリは187件あります。 読み物社会人生 などが関連タグです。 人気エントリには 『セフレですよ、不倫ですよ、ねえ、最低でしょ - 傘をひらいて、空を』などがあります。
  • セフレですよ、不倫ですよ、ねえ、最低でしょ - 傘をひらいて、空を

    仕事の都合で別の業種の女性と幾度か会った。弊社の人間が、と彼女は言った。弊社の人間が幾人かマキノさんをお呼びしたいというので、飲み会にいらしてください。 私は出かけていった。私は知らない人にかこまれるのが嫌いではない。知らない人は意味のわからないことをするのでその意味を考えると少し楽しいし、「世の中にはいろいろな人がいる」と思うとなんだか安心する。たいていはその場かぎりだから気も楽だし。 彼らは声と身振りが大きく、話しぶりが流暢で、たいそう親しい者同士みたいな雰囲気を醸し出していた。私を連れてきた女性はあっというまにその場にすっぽりはまりこんだ。私は感心した。彼女は私とふたりのときには同僚たちに対していささかの冷淡さを感じさせる話しかたをしていた。 どちらがほんとうということもあるまい。さっとなじんで、ぱっと出る。そういうことができるのである。人に向ける顔にバリエーションがあるのだ。私は自

      セフレですよ、不倫ですよ、ねえ、最低でしょ - 傘をひらいて、空を
    • わたしの弟はワクチンを打たない - 傘をひらいて、空を

      疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。最初の通達から一年あまり、何度目かの通達のさなか、疫病のワクチンが提供されはじめた。それで全員が打つかといえば、そうではない。わたしの弟は打たないという。そして、わたしはそれを責めることができない。 弟は東京で一人暮らしをして、アルバイトで生計を立てている。今日働かなければ来月の家賃があやうい。運も悪かったし、弟の思慮が足りないところもあったと思うのだけれど、とりあえず自分で生活はできているのだし、人に大きな迷惑をかけているわけでもなし、責められるようなことではない。 わたしはそう思っているのだが、両親は「恥だ」と思っている。自分たちの助言をふいにして大学進学をせず、夢みたいなことを言っておかしな企業に就職してすぐに辞めてその日暮らしをしている、そんな浅はかな息子は心配するのも癪だと、そういうふうに思っている。 そうはい

        わたしの弟はワクチンを打たない - 傘をひらいて、空を
      • 雑で速いやつに対する説諭 - 傘をひらいて、空を

        疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。弊社ではそのために些末な打ち合わせもオンラインでおこなわれ、皆が慣れてきた今となってはリアルタイムの共同作業も気楽に実施されている。本日は上司からの資料レビューであった。 上司:急ぎでイレギュラーな仕事やってもらっちゃってごめんね わたし:いえいえだいじょうぶです 上司:こういう差し込みの仕事、ガッてやってバッて出してくれるのほんと助かる わたし:いやあ、この程度でよろしければ 上司:あのね、できればこの程度じゃなくしてほしい 上司:あなたの仕事はいつもスピーディで対応も柔軟で素晴らしい。でも雑 わたし:あっそれが本題ですね 上司:うん。赤字のところ見ておいて。とくに数字の誤字は致命的だからね。あと図の作りとレイアウト。せめて余白を左右対称にしてほしい。総じて雑 わたし:承知しました。赤線ありがとうございます。すごく直し

          雑で速いやつに対する説諭 - 傘をひらいて、空を
        • あなたブスでモテないんでしょ - 傘をひらいて、空を

          疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしはあなたにずっと会っていない。 オンラインで飲んでるって? あんなの会ってるとは、わたしは言わない。通話に近いと思ってる。あなたはオンライン飲みも「会ってる」にカウントするけどね。なんせアイドルのコンサートに行って「誰それに会った」って言うような人だからね。 あなたはアイドルに会ってないですー。見ただけですー。観覧しただけですー。会うっていうのはお互いがお互いを個別に認識してコミュニケーションが成立した状態を指すんですー。アイドルはあなたなんかどうでもいいんですうー。 あなたはオンラインで愚痴をこぼす。出会いがないという、いつもの愚痴だ。彼氏ほしいってあなたは言う。それなのにアプリでのアピールはど下手。あのさあ、自信がないない言いながら自信がないまま薄ぼんやりしたビジョンで彼氏作ろうとして何になるのよ。女

            あなたブスでモテないんでしょ - 傘をひらいて、空を
          • いなくなったあの人のこと - 傘をひらいて、空を

            疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから二年半、わたしの会社からは何人かがいなくなった。転職や定年退職はカウントしていない。職場を変えるのではなく、ただ辞めた人の数である。 このところ疫病の感染状況はまったくよろしくないのだが、それでも出社は増えた。あまりに長期間なので、弊社の経営陣は「ある程度のリモートワークを残し、リスクは承知で出社してもらって、それでやっていくしかない」と考えたようである。緊急対応というには、二年半はあまりに長い。 そうすると増えるのが立ち話である。新人や新しいクライアントについての情報交換、リモートワーク生活のこと、リモート対応で導入されたソフトウェアの感想、そして、いなくなった人の話。 いなくなった人のひとりはわたしの新人時代の指導役だった。 二十年前のことだから、今から考えるとハラスメントが横行していた。社員個人を「女は」と

              いなくなったあの人のこと - 傘をひらいて、空を
            • あの女の恋愛感情を利用していい生活をしてやろう - 傘をひらいて、空を

              疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それがきっかけで僕と彼女は一緒に暮らし始めたのだけれど、この生活が気に入りすぎて疫病の流行が終わってもやめたくない。 つきあって三ヶ月という、恋愛的にいちばん盛り上がっているタイミングで同居したから、すぐ破綻してもおかしくないと思っていた。なにしろ僕はすぐ飽きちゃうのだ。女の子と半年以上つきあったことがない。 僕の個人的な感覚では、同じ相手とのセックスは三回目から十回目がピークで、あとはまああってもなくてもという感じだし、恋愛的な様式としてのデートについては「女の子のドリームを読み取ってサービスするのめんどくせえな」と思う。だから自分は長期的な関係に向いてないのかなあ、なんて思っていたのだけれど、好きな人と生活を共にしてみたら継続したくなったので、向いてなかったのは長期的な関係というより長期的な「恋愛」関係だったみたいだ

                あの女の恋愛感情を利用していい生活をしてやろう - 傘をひらいて、空を
              • 一人称が強すぎる - 傘をひらいて、空を

                疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにもっとも影響を受けたのが医療機関である。わたしは二年以上、いわゆる同居家族以外と私的に会うことをしなかった。 まじめだねえ、と友人が言う。二年のあいだに引っ越してフリーランスになって子どもが小学校に入ったというが、本人はあまり変わったように見えない。 まじめだねえと彼女は繰り返す。わたしの知ってる別の医者なんかばんばん飲み歩いてたよ。ストレスたまるからって。おごるからつきあえって言われて、まあ行ったけどもさあ。 そういう人もいる、とわたしは言う。わたしはそうしない。その人はストレス解消といろんなリスクを天秤にかけて、早くから飲みに行くのを選んだのでしょう。とにかくリスクを減らそうとするなら今でも人と会わないのだし、カフェインもアルコールも取らずに完璧な食生活をして睡眠をとることに全力を注ぐでしょ。そういう人もい

                  一人称が強すぎる - 傘をひらいて、空を
                • インターネットに向いてない - 傘をひらいて、空を

                  おいバズってるけどだいじょうぶか。 そういうLINEが入った。私はソーシャルメディアが得意でない。 Twitterは数日に一度見る。言われて見てみるとたしかに私が投稿した短編がバズっていた。稀にあることだ。今年の春先にもあった。でもそれより規模が大きい。 ほんとだ、と返信する。別の友人からもLINEが入る。バズってるね。そうだね、いま見た、と私はこたえる。メッセージがポップアップする。 寒くなってきたから上着を持ち歩くんだよ。さやかさんは薄着でうろうろして「寒い」と言うのだから、あらかじめ天気予報を見るなどして気をつけなくてはいけないよ。バズってへんなメールが来たら次に会うときの酒の肴にするんだよ。 友人たちは私を心配してLINEを送ってくれたのだ。私はバズると少し体調を崩す。正確に言うと、バズったためにそれまで私の文章を読んだことのない人がいっぱい来て、なかにはよくわからない人がおり、執

                    インターネットに向いてない - 傘をひらいて、空を
                  • 俺に口を利くなというのか - 傘をひらいて、空を

                    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのときわたしは一人暮らしだった。こんな世の中だから、とわたしの交際相手は言った。不安だよね。一緒に暮らそう。結婚しよう。 そうしてわたしたちはたがいの両親に会い、いささか古いと思いながらも「婚約」というプロセスもやることにした。区役所に婚姻届を出す前に結婚式の準備をしながら同居して生活を整える期間をもうけたのだ。 結果として、これは正解だった。さっさと籍を入れていたらより面倒なことになったはずだからだ。婚約してよかった。そう、わたしは婚約から半年後、それを破棄したのである。 最初に疑問を感じたのは彼の「いいよ」ということばだった。 結婚すると決めて以降、この小さなことばの使い方が、ほんの少し変わったように感じたのだ。それまでは「コンビニ寄っていい?」「いいよ」といった使い方だった。これはぜんぜんおかしくない。友だちにも

                      俺に口を利くなというのか - 傘をひらいて、空を
                    • 母の死に目に会えないだろう - 傘をひらいて、空を

                      疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だから僕はそれ以来母に会っていない。 僕が母と呼ぶのは養母のことである。実母は僕を産んですぐに亡くなった。もちろん記憶にはない。 血のつながりというものがどれほど強いのか僕にはわからない。僕は父とは血のつながりがあって母とはない、そいういう家庭で育ったわけだけれど、父母のどちらかだけを本物の親だと思ったことはない。 父は僕と子ども同士のように遊ぶばかりの(今にして思えば)子育ての実務の役に立つことのない人だったし、父の威厳みたいなものもぜんぜんなかった。母は母でずいぶんと(当時にしては)進歩的な考え方の、なかなかのインテリで、高校の教員をしていて、当時のティピカルな母親像みたいなことをやってくれる人ではなかった。おかずはだいたいスーパーかデパ地下のやつで、僕はそれを親たちと一緒に食べて大きくなったのである。 そんなだから

                        母の死に目に会えないだろう - 傘をひらいて、空を
                      • 学歴ロンダリング成功したんですね - 傘をひらいて、空を

                        あ、じゃあ学歴ロンダリング成功したんすね。 誰かが私の背後でそう言った。その発言の直後、聞き覚えのある声がこたえた。は? ロンダリング? それって不正なカネの洗浄を指すことばですよね? わたしが不正な学歴を洗浄したとでも? 振り返ると聞き覚えのある声の主は私の顔見知りの他部署の後輩なのだった。私の勤務先では昼休みの時間は比較的フレキシブルで、「だいたい十二時から二時くらいの間に一時間とってね」という感じなのだけれど、そのどまんなかの十三時に社員食堂に行くと、たいてい知っている人がいる。 すげえ、と私は思った。「学歴ロンダリング」という物言いもなんだかすごいが、言い返した後輩のせりふはもっとすごい。よくもまあ咄嗟にそこまで言えるものである。口調もいい。「おまえはばかか」とゴシック体で書かれているみたいな完璧な軽蔑のトーンで、ほとんど平坦ながら声はきれいに通り、役者がせりふを読んだようだった。

                          学歴ロンダリング成功したんですね - 傘をひらいて、空を
                        • 素直で笑顔で気がきいて - 傘をひらいて、空を

                          疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの職場にもリモートワークが導入され、出社しても顔を合わせる会議は最低限になった。飲み会はもちろんない。そのためにわたしはしばらく水木さんにつかまらずにすんでいた。 水木さんはわたしの同期であって、とてもいい人である。やわらかな笑顔を絶やさず、細やかな気遣いをみせ、辛抱強くがんばりやで、後輩の面倒見もよい。 でもわたしは彼女とあまりかかわりあいになりたくなかった。 十年と少し前、わたしと彼女はともに新入社員だった。一年目はなにしろわけがわからないものである。だからたいていのことはいったん「そういうものか」と受け取って、あとで検討することにしていた。 わたしは仕事が終わると毎晩「私的日報」と名付けたファイルをひらいて、その日に覚えたことのほか、確認検討すべきことを書き留めた。たとえば「隣の部署のお茶出しを頼ま

                            素直で笑顔で気がきいて - 傘をひらいて、空を
                          • 恋愛より特別なこと - 傘をひらいて、空を

                            わたしが一緒に住んでいる女は恋人ではない。 妻でもない。妻であればラクだとは思う。お互いのオフィシャルな緊急連絡先になって、どちらかが入院したらもう片方も病室に入れて、先に死んだほうの遺産が残ったほうに自動で行く。いいなあ、めちゃくちゃラクそう。 でもわたしたちは結婚することはできない。わたしたちはどちらも女である。 わたしたちは互いの稼ぎを持ち寄り、住居の確保から家事の分担まで二人で意思決定し、生活をともにしている。相手がいなくなったら生活を立て直さなくてはいけない。そういう相手を何と呼ぶのかと、同居人でない別の友人に訊いたら、パートナーじゃん、との回答が返ってきた。 わたしは反論する。いやそれは籍を入れてないカップルの呼び方でしょ。わたしたち恋愛してないから。する予定もないから。 そもそも恋愛や性愛がパートナーシップにくっついてくるのが、変だと思うんだよねえ。友人はそのように言う。相互

                              恋愛より特別なこと - 傘をひらいて、空を
                            • どうして、お母さん - 傘をひらいて、空を

                              疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでわたしは母に会うことができない。 わたしの母はすごく感じのいい人だった。同世代や祖父母世代だけでなく、わたしの友だちもみんなそう言った。母はわたしの覚えているかぎり場違いなふるまいをしたことがなかった。家にどんな人が来たときにも、旅行先でも、わたしの保護者として学校に来るときでも、親戚の集まりでも。 小学生のころまではそういうのが当たり前だと思っていた。お母さんは大人だからねって思ってた。お父さんはお母さんに比べてドジだなって思ってた。父はときどき誰かと言い争いをしたり、発言すべきでないときに発言して気まずそうな顔になったりしていたから。それで人に笑われたりもしていたから。 わたしはおよそ母を嫌う人やばかにする人を見たことがなかった。母はいつも適切なふるまいをしていた。高校生までのわたしの目には、そのように見えた。

                                どうして、お母さん - 傘をひらいて、空を
                              • ラブホ行こうよ - 傘をひらいて、空を

                                疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでしばらくおとなしく暮らしていたところ、彼氏が「ラブホ行こうよ」と言うのだった。 こいつだいじょうぶかとわたしは思った。一緒に暮らしてる人間とラブホ行ってどうすんだ。ベッドなら家にもある。それぞれが一人暮らしのころに使っていたベッドを持ち寄ったのでそこいらのホテルのよりでかい。ネトフリの見たいものリストはまだ長いし、switchも買った。最近は近所の銭湯に行くのがこの家のブームでもある。セックスだってしているじゃないか。奇抜な設備を別にすれば、ラブホにしかないものなんかないだろう。 ある、と彼は言い張るのである。行きがけにコンビニに入ってテンション上がってあれこれ買って結局残しちゃったりとか、女の子がシャワーを浴びてるあいだそわそわしながら待ってたりとか、なんとなく寝ないでぼつぼつ話したりとか、窓がないもんだから朝ぜ

                                  ラブホ行こうよ - 傘をひらいて、空を
                                • あなたのことは好きじゃなかった - 傘をひらいて、空を

                                  疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。現在はワクチンがある程度いきわたり、感染者数がかなり減って、みんななんとなくうきうきしている。それでわたしも連休に帰省することにした。 わたしの地元では「東京で働いている娘が来て感染させた」となったら家族にものすごく迷惑がかかりそうで、帰省を控えていた。県の中核都市だから、知らない人もいっぱい歩いていて、娘が帰省したからその親が村八分になるみたいなことはないんだけど、それでもやっぱり、わたしはずっと、自分が生まれた町に帰れなかった。 わたしの生まれた家にはわたしの両親が住んでいる。両親は疫病前から家を売ってマンションに住もうという話をしていて、だからわたしは自分の生まれた家にお別れするつもりで来ていた。妹は県内に住んでいるからしょっちゅうこの家に来ているし、両親にも会っている。そんなわけでわたしだけがちょっとセンチメンタ

                                    あなたのことは好きじゃなかった - 傘をひらいて、空を
                                  • コンテンツ必要ない系の人々 - 傘をひらいて、空を

                                    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしに新しい出会いの機会がなくなった。恋愛の話ではない。仕事のコネクションとかの話でもない。友人知人の話である。わたしは知らない人と新しく知り合うのがとっても好きなのだ。利害関係も色恋沙汰もないところで雑談がしたいのだ。そうして「人間はみんなちがう」と思う、するとなんだか安心する。これができないとなんだか世界が平板になった気がしてうそ寒く落ち着かない。知らない人としゃべりたい。 その欲求にこたえたのはもちろんインターネットである。ウイルスが載らないコミュニケーション手段。知らない人もうようよしている。知り合うとっかかりとしては趣味がもっともやりやすい。わたしは小説やマンガの話ができる相手を探し、気の合う仲間を手に入れた。めでたし。 めでたしなのだが、彼らのある種の性質にわたしは少々困っている。 小説やマンガの

                                      コンテンツ必要ない系の人々 - 傘をひらいて、空を
                                    • だって他人だもん - 傘をひらいて、空を

                                      上司がビールを注文した。わたしは咄嗟に目を伏せ、その目を左右に泳がせた。隣の後輩とがっちり目が合った。彼もまた目を伏せてそれを泳がせていたのである。 今日は会社の近くで飲んでいた。わたしは様子を見て一次会でおいとました。駅に向かって歩き出すと、先ほど目があった後輩が追いついてきた。 彼は言った。あの人、飲むんすね。わたしも言った。飲むんだね。びっくりしたわ。 上司は先月、会議中に倒れた。発見が遅れたら死んでもおかしくなかったそうだ。本人があとからそう言っていた。人がいるところで倒れたのがよかった、というのもなんだが、しかしよかったのだ、迅速に病院に運ばれて、死なずに済んで、すぐに会社に出てくるほど回復したのだから。 この上司の不摂生は有名だった。今どき珍しいくらいよく飲む。翌日が平日でも終電を超えて飲む。短めの二次会までは普通の飲み会である。最初からよく飲む人だが、その後は飲み方がより激し

                                        だって他人だもん - 傘をひらいて、空を
                                      • 意味づけられたコーヒー - 傘をひらいて、空を

                                        疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために盆正月にいつも集まる友人たちとの会合もこのたびはZoomである。 盆正月に集まる相手は多くが親戚や故郷に残った幼友だちだろう。しかしわたしはなぜか大学のときの友人四人で集まる。全員同業種で勤務先はばらばら、なんとなし馬が合うがしょっちゅう飲みに行くような感じではない。それで盆正月になると寄り集まってやくたいもないおしゃべりをし、仕事に役に立つようなそうでもないような情報を交換し、またやくたいもないおしゃべりに戻る、そういう時間を過ごすのである。 そうだマキノさんコーヒー買ってよコーヒーと友人が言う。わたしたちの仕事にコーヒーは関係ない。ただしわたしはコーヒーが好きである。あのねと彼は言う。あのねえ僕の下の娘には障害があるでしょう、だからねえ沖縄のコーヒー農園の人と障害者支援団体の人と組んで社会起業的なアレをはじ

                                          意味づけられたコーヒー - 傘をひらいて、空を
                                        • 自炊人間と全裸人間 - 傘をひらいて、空を

                                          疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために僕の勤務先でもリモートワークが導入され、この一年半のあいだは週三回程度出社し、二回程度在宅勤務をしていた。 僕は食生活に重きを置く人間である。当然のように料理ができる。何はなくともメシがまずいと人生の意味がわからなくなるからだ。ふだんは「人生に意味などない」と威張っているので、「人生の意味とは」などと考えはじめる段階でよほどの重症である。 とはいえ僕もまた長時間労働が常態化した現代日本の会社員であり、休日はともかく平日の晩飯作りにかけられる時間は一日平均三十分程度である。スーパーマーケットへの買い出しの時間を入れるともっと必要だ。リモートワークが導入される前は休日や夜中におかずを作り置きしていた。「召し上がれ今日の俺」と感謝の意を述べて食い、「ごちそうさま一昨日の俺」と言って食事を終えるのである。 その生活には

                                            自炊人間と全裸人間 - 傘をひらいて、空を
                                          • メイクと実存 - 傘をひらいて、空を

                                            年に一度、友人にメイクを習いに行く。友人は何段にも分かれたメイクボックスを持っていて、いくつかの色をわたしの顔にあてる。彼女は眉の描き方を修正し、アイカラーとアイライナーを変えて塗り方を教示し、新しいアイテムとしてハイライトをわずかに使うことを提案して、実際に塗ってくれた。 わたしは彼女の指示をメモする。彼女がつくってくれた「今年のわたしの顔」を撮影する。彼女はアイカラーをふたつくれる。いくらでも買っちゃうから、もらって、と言う。メイクボックスの薄べったい抽斗に目をやると、ずらりとアイカラーが並んでいる。必要があってこんなに買うのではないの、と彼女は言う。だからあげても問題はないの。コスメを買いすぎるのはね、実存の問題ですよ。 実存の問題、とわたしは言う。実存の問題、と彼女も言う。そうしてぱたりとメイクボックスを閉じる。 わたしは母の鏡台を思い出す。父方の祖母のお下がりで、ものすごく古かっ

                                              メイクと実存 - 傘をひらいて、空を
                                            • いつも死にたい一族 - 傘をひらいて、空を

                                              知人のお祝いに出かけた。役職が上がると聞いているので、そのお祝いである。今年から娘さんが私立中学に上がったので、遅ればせながらそのお祝いもかねるということで、四年ぶりにご自宅にお邪魔する運びになった。 冬の街をデコレーションするのは寒いからである。私はそう思う。クリスマスとかお正月とかのせいではない。寒くてやってられないからクリスマスとかお正月とかを言い訳にして飾りつけをするのだと思う。だって五月や十月ならきらきらさせなくても楽しいもの。世界がいつも五月と十月ならいいのにと言ったのは誰だっけ。 小学校で受験する人は半分以上が親の受験みたいなものらしいですけど、と彼女は言った。高校だとほぼ本人の受験ですよね。お金だとか環境だとか、間接的なものは、親が整えるので、スタートラインの段階でハンディがある子はいっぱいいますけど、受けるのは本人です。中学受験は、その中間くらいでしょうかねえ。 じゃあま

                                                いつも死にたい一族 - 傘をひらいて、空を
                                              • 彼女は私をゴミみたく捨てる - 傘をひらいて、空を

                                                人間が精神的に乱れるのは思春期にかぎったことではない。人生の中で何度か起こりうる。そのときはできるだけいろんなリソースを使って立ち直るのがよいと私は思っている。だから昔の友人知人が連絡してきて不安定なようすであった場合、できるかぎり力になろうと思っている。 私だっていつ失職したり病気になったり災害に遭ったりするかわからないのだし、そうしたらきっと精神がだめな感じになるだろうし、そのときはまわりの人がきっと助けてくれるだろうから、そのぶん自分が健康なときには人を助けておきたいと、そういうふうに思うのである。人間の精神はそんなに丈夫ではない。だめになるときはなる。だめになるかならないかは持ち回りみたいなもので、いま私の精神がそこそこ健康に機能しているのは「たまたま」である。 彼女から連絡が来たのは三ヶ月ほど前のことだった。十年ぶりの連絡だった。彼女と私は学生時代の英語のクラスが一緒で、在学中は

                                                  彼女は私をゴミみたく捨てる - 傘をひらいて、空を
                                                • 恋愛なんか好きじゃなかった - 傘をひらいて、空を

                                                  疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために停滞したもののひとつが恋愛活動である。僕らの世代では(少なくとも僕の周囲の同世代の友人の間では)「恋愛したいなら『自然な出会いを待ちたい』などというのは寝言であって、自分から動かないやつにはなにも起きない」という認識が一般的である。恋愛したけりゃ恋愛活動をするものなのだ。 そしてその恋愛活動の多くが停止し、いくらかは強行され、全体に様変わりしたのがこの一年数ヶ月である。 僕は疫病流行が一度落ち着いたところで今の彼女に出会った。そうして彼女が「つきあおうよ。わたしとつきあうと楽しいよ」と言うので即つきあうことにした。その後ふたたび新しく人と会うのが困難に(あるいはためらわれるように)なったので、いわば出会いの滑り込みである。滑り込めたのは彼女の腕力のおかげだ。デート一回目でつきあおうなんて言えないですよ、少なくと

                                                    恋愛なんか好きじゃなかった - 傘をひらいて、空を
                                                  • 女の子であること - 傘をひらいて、空を

                                                    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためによその家族と一緒に近場の温泉に行くのは二年ぶりである。 わたしには子がおらず、子どもの相手をするのはわりに好きだ。友人には子が三人いて、上から六歳、四歳、二歳である。友人の配偶者は子育てをしない。それで子連れの小旅行に出るときにはわたしとわたしのパートナーが一緒に行く。 温泉に入る。友人の真ん中の子は男の子なのでわたしのパートナーが男湯に連れていく。あとは女湯に行く。友人は二歳の子の面倒を見、わたしはわりと手のかからない六歳の相手をする。二年見ないうちにとても大きくなったし、言葉遣いなんかもだいぶしっかりした。お湯の準備をこまごまとして、「よし」というふうにうなずく。そしてわたしを見上げてはっと固まる。 どうしたのと訊くと小さい声で「ユカリさんは……女の子だ」と言った。わたしは服を脱いでおり、子どもの視線はわた

                                                      女の子であること - 傘をひらいて、空を
                                                    • そしてわたしは嘘をつく - 傘をひらいて、空を

                                                      疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。しかしながら引っ越しはいまだ認められている。「要」で「急」であるという審査を通るかぎりにおいて。具体的には労働もしくは「家族」の要請するかぎりにおいて。 この社会は第一に自助、それから血縁・法律婚家族の「絆」で回っている。真実天涯孤独であるならその証明書を出せばしかるべき機関が(ゲットーとあだ名されている)指定住宅を提供する。「福祉」である。疫病が流行しているこの非常事態において許される私用の引っ越しは、家庭の結成と解散、または「福祉」を要するケースのみである。 わたしの引っ越しは政府の定義における不要不急でない。この国家がこの事態において容認するものではない。わたしは女で、女と暮らしたいのである。 そんなだからわたしは芝居を打った。わたしは一緒に暮らしたい女を「緊急連絡先の姉」とし、そうして同世代の男の友人を「結婚する予定の人」として連れ

                                                        そしてわたしは嘘をつく - 傘をひらいて、空を
                                                      • さみしいと人はおかしくなるんだよ - 傘をひらいて、空を

                                                        疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人と人が会う機会があきらかに減った。わたしはそれに危機感をおぼえ、人とのコミュニケーションの場や出会いの場を工夫して増やした。 友人が減ってもかまわない人もあるのだろうが、わたしはそうではない。若いころから意識的にさまざまな形式で親しい人をつくり(形式というのは友人とか恋人とか、そういうのです)、その人々によくするように心がけ、長期的にはそれが返ってくることを期待してやってきた。わたしにとってわたしを大切にしてくれる他者は運命のように与えられるものではなく、また一度得たらずっと持っていられるものでもなく、自分から獲得しに行き、相互に定期的にその必要性を判断するもので、だから原則として時が経てば減るものだ。 わたしにこのような感覚が芽生えたのは十九歳のときである。それまでは環境によって人間関係を与えられるような感

                                                          さみしいと人はおかしくなるんだよ - 傘をひらいて、空を
                                                        • 友人が友人でなくなるただひとつの恋愛パターン - 傘をひらいて、空を

                                                          疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの周囲から真っ先になくなったのが「慣例でなんとなく年に一度くらいやっていた昔なじみとの飲み会」である。ほんとうはみんなそれほどやりたくもなかったのかもしれなかった。 もう復活することはないかなと思ったのだけれど、疫病流行から二年、なんとなくの飲み会をやってもいいのかもしれないというような空気が東京にやってきて、それでまたわたしの昔なじみから声がかかった。わたしは行くと返信した。 わたしはなにしろ飲み会に飢えていた。先だって趣味仲間に声をかけて飲み会をやったのだけれど、ハイになっちゃうくらい楽しくて超酔っぱらった。飲み会はほんとうに楽しい。疫病前はそこまでではなかったのに、一度奪われるとこんなに恋しくなるものかと思う。それで昔なじみの集まりにも一も二もなく参加した。 そうしたらしばらくLINEのやりとりもな

                                                            友人が友人でなくなるただひとつの恋愛パターン - 傘をひらいて、空を
                                                          • 主人は子煩悩じゃありませんから - 傘をひらいて、空を

                                                            子どもたちがいっせいに笑った。読み聞かせが受けたらしい。読んでいるのはわたしの夫である。保護者会の後に子どもたちと保護者たちの交流の時間があって、その一環として読み聞かせの場がセッティングされ、わたしの夫が立候補したのだった。わたしがにこにこしてそれを見守っていると、顔見知りの保護者が、あらあ、と言った。レイカちゃんパパはほんとに子煩悩でいらして。ねえ。ほんとにねえ。 わたしはその保護者の名前を思い出す。沢田さん、と言う。こんにちはと言う。沢田さんは話し続ける。 レイカちゃんパパみたいな方、最近はいらっしゃるのよね。うちはそういうんじゃないから。主人ともよくそういう話してるんですよ。ほんとうにね、レイカちゃんパパは、子煩悩でいらっしゃって。 わたしの夫は娘を好きです。わたしはそう言う。そして混乱する。なんだろう、この人、何か、いやな感じがするんだけれど、それはなぜだろう。わたしの知らないと

                                                              主人は子煩悩じゃありませんから - 傘をひらいて、空を
                                                            • 彼女がいちばんきれいだったころ - 傘をひらいて、空を

                                                              疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年ばかり、久しぶりの連絡が増えている。そうして「実はあのころ」という話を、ぽつぽつと聞く。実はあのころ、子どもが不登校になってね。いいえ、中学校に上がったらけろっとしちゃって。実はあのころ、わたしガンになってね。いいえ、もうほぼ完治してる、ちょっと手術しただけで、予後がすごくいいタイプのもので、たまに検査しに行くだけで、ほんとうにどうということもない。 全部終わったから、言うんだけど。 疫病の流行からしばらく続いた、いわゆる行動制限中でも「この人たちなら」と思って会う人には、彼女たちはその話をしたのだろう。わたしにとってそういう仲でなかった人たちは、その身に起きたあれこれを黙っていて、今になってぽつぽつ話す。 わたしには年長の女友達がいくらかいて、なかでもわたしに年の近い人が、やはりそのように言うのだった。男と

                                                                彼女がいちばんきれいだったころ - 傘をひらいて、空を
                                                              • 恥と命令とプライドと - 傘をひらいて、空を

                                                                疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。外出は通勤を含む。そのために対面を必須としない業務は大急ぎで在宅勤務に移行した。具体的にはインターネットを経由して仕事をするようになった。わたしの職場はIT系ではない。だからそうしたことが得手な人間が不得手な人間をサポートすることになる。わたしはサポートする側である。そしてその状況に、つくづく飽きている。 全員が思いきり働いて全員が機能している組織があったら不健康だ、という話を聞いたことがある。どんなにすぐれた組織にも常時さぼっている者はあるし、能力がマッチせず機能しない者もある。そういう従業員を全員見つけ出して片っ端からくびにする組織は、いったいどうやってそれを可能にしていると思う? 想像した? ね、恐ろしいだろうーーそういう理屈だった。 わたしはそれを聞いてなんとなし納得し、職場で誰が仕事をしていなくても、また自分が

                                                                  恥と命令とプライドと - 傘をひらいて、空を
                                                                • わたしの中のかわいい女 - 傘をひらいて、空を

                                                                  このところわたしばかりが仕事を休んでいる。 幼児は熱を出すものだ。ここ半年は誇張でなく隔週ペースである。そうなると親が仕事を休まざるをえない。そしてこのところそれを担当するのがわたしばかりなのである。 結婚話が出たときに、わたしは夫と家事子育ての話をした。夫はもともと自分のことは全部自分でする。しかしわたしは、フルタイムで働く女たちの夫が家事育児をせず、その結果、けんかしたり(意外と少ない)、我慢したあげくにキレたり(けっこういる)、女友達に愚痴を言いながらなぜか家事は引き続き全部していたり(これが多数派)するのを、さんざっぱら見てきたのである。 わたしはそんなのはぜったいにいやだった。「夫を育てる」みたいなのも冗談じゃなかった。わたしは「夫」がほしかったことなど一度もなかった。一緒に楽しく暮らすための努力を二人ともができる、そういう相手がいたから、はじめて結婚のオファーを検討したのだ。

                                                                    わたしの中のかわいい女 - 傘をひらいて、空を
                                                                  • プリキュア・メカニカルハートのこと - 傘をひらいて、空を

                                                                    夏の休暇は旅行するの。あらいいわね。いつ戻るの。そしたら一日二日ヒマな日があるでしょう。帰っていらっしゃい。 母が珍しく強くわたしの帰省を要求した。その意図するところは明らかで、わたしが延々と物置がわりに使っている昔の子ども部屋を片づけろ、との命である。 いくらなんでもそろそろ部屋を空にしなさいと言われ続けてはや数年。わたしは重い腰を上げ、故郷と言うほどには離れていない生家に向かった。ちょうどいいといえばちょうどいい。わたしたちのプリキュアを発掘してこよう。 先日、従姉が入院した。たいした病気ではないそうなのだが、生まれて初めての手術を控えていたからか、それとも年を重ねたからか、ちょっとばかり弱気になっていて、見舞いに行くと昔話をたくさんした。あのときは楽しかったね、と何度も言った。 あのときとは、従姉の母親、わたしの伯母の通夜の日のことである。 そのとき従姉は大学生で、いかにも気丈に来客

                                                                      プリキュア・メカニカルハートのこと - 傘をひらいて、空を
                                                                    • さよなら、わたしのシモーヌ - 傘をひらいて、空を

                                                                      シモーヌとは十四年のあいだ一緒に暮らした。シモーヌは冷蔵庫である。名の由来は冷凍庫に霜が降りることであった。わたしの家に来る友人たちが「いまどきそんな冷蔵庫があるのか」と話題にし、誰からともなくシモーヌと呼びはじめ、わたしもその名を使うようになった。 シモーヌはわたしと出会った段階ですでに新しい冷蔵庫ではなかった。大学を卒業して寮を出るとき、一人暮らしをやめる友人からもらったのである。大学生の一人暮らし用としては大きめのサイズだった。わたしは自炊をするのでありがたく貰い受けた。 はじめて一人暮らしをした部屋の中のものはみんな貰い物だった。家具も家電も買った覚えがない。そうした大物にかぎらずわたしはよくものを貰う人間だった。貧しかったからかもしれない。自分では「愛されているからだ」と言っていた。わたしを嫌いな人からは「乞食の顔をしているからだ」と言われた。正直なところ、どちらでもかまわなかっ

                                                                        さよなら、わたしのシモーヌ - 傘をひらいて、空を
                                                                      • 脆弱とマヨネーズ - 傘をひらいて、空を

                                                                        世の中にいるのはみんないい人だと思っていた。僕は二十七歳で、パリ近郊の鉄道駅にいて、一文無しになったところだった。 会社が海外でMBAを取らせてくれるというからフランスに行くことにした。ラッキー、と思った。学校では主に英語を使うけれど、現地語もできなくちゃいけない。ぜんぜん休めなくて、「ちょっとこれはまずいかもしれないな」と思ったところで大学の休業期間に入った。バックパックを背負って周辺をくるりと回って、住処の近くのターミナル駅まで戻った。そんなに長くフランスに住んだわけでもないのに、早くもホーム感があった。部屋に帰ったら、すごくだらしない格好で寝そべって、何ひとつしないで眠りこんでやろう、と思った。 おい、あんた、コートがえらいことになってるぞ。声をかけられて自分の背中を見た。もちろん見えない。声をかけてきた男は斜め上から僕の背中をのぞきこみ(僕だって小さくはないけど、彼はアフリカ系で、

                                                                          脆弱とマヨネーズ - 傘をひらいて、空を
                                                                        • 不要不急の唇 - 傘をひらいて、空を

                                                                          疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは必要なものを買いに行くふりをして外出した。わたしと彼の給与の財源はともに税金である。だからわたしたちは行儀よくしていなくてはならない。そうでないと職場に苦情がいく。 近所にはわたしと彼の職業の詳細を知る人が幾人もいる。だからわたしは「市民感情」において満点をたたき出す役人でいなければならず、彼は「生徒の模範となる」教師のようにふるまわなければならない。いつも。わたしたちの素性を知る人の目があるところでは、二十四時間、いつでも。 わたしたちはガーゼマスクをつける。わたしたちは手をつながず、あまりくっつきすぎないように気をつけながら歩く。わたしたちは公共の場で失礼にならない程度の、しかし華美ではない服を着ている。どこの家庭にも必要な買い出しのためだけに外出していると、誰が見てもそう思ってくれるだろう。 でもわたし

                                                                            不要不急の唇 - 傘をひらいて、空を
                                                                          • わたしたちは隔てられている - 傘をひらいて、空を

                                                                            疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。大学入試は要で急ということになったようで、わたしの勤務先でも大学入学共通テストが実施された。 わたしは研究助手として母校で働いている。この「助手」というのは教職ではなくて、助手としての仕事をもっぱらにする立場である。わたしの職場の助手は卒業生が多く、いろいろな意味で事務方・教員と学生の間に立つような仕事だ。 わたしの最初の就職先が妊娠した女性社員に嫌がらせをするところで(当時はさほど珍しくなかった)、大きなおなかを抱えて伝手をたどり、出産後半年で今の仕事に就いた。そのとき乳児だった娘は高校三年生になった。共通テストに付き添ってやりたかったが、わたしも仕事だからしかたない。 娘に激励LINEを送ってからスマートフォンの電源を切る。電子機器はすべて控え室に置くのがきまりで、試験中に着信が鳴ったら悪いので電源ごと切るのが習慣だ

                                                                              わたしたちは隔てられている - 傘をひらいて、空を
                                                                            • 要求コミュニケーションのゆくえ - 傘をひらいて、空を

                                                                              疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでリモートワークが定着してしばらく経ち、出社時のコミュニケーションもだいぶ電子化された。そのためにわたしはものすごくほっとしている。渡邉さんからの働きかけが激減したからである。 渡邉さんはわたしの部下である。以前の上司から「うまくやるのはたいへんだと思う」と聞いてはいた。高圧的なのか仕事ができないのか、そんなところだろうと思っていたら、そうではないのだった。渡邉さんはある意味でとても正しいのである。そして正しさで管理職のリソースを取れるだけ取ろうとする人なのだった。 渡邉さんは管理職のミスを指摘する。渡邉さんは高圧的な話し方はしない。ただし話が長い。自分がなぜそれを指摘するのか、本来はどうあるべきなのか、そこから外れることが部下や会社にどういったダメージを与えかねないか、延々と話す。遮ると管理職が部下の指摘を遮ること

                                                                                要求コミュニケーションのゆくえ - 傘をひらいて、空を
                                                                              • おれにスカートを履かせろ - 傘をひらいて、空を

                                                                                疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。うちの会社も半分くらいリモートワークになって、だから夏はとくに快適だった。夏場に毎日フルレングスのパンツを(しかもワイドや薄地ではないものを)履くのは、端的に言って苦行である。そのうえパンツの傷みもはげしい。お気に入りであればあるほど着る気になれない。 おれは学生時代、たまにスカートを履いていた。女性装としてではない。メンズファッションとして着ていた。今でも頻度こそ減ったが、時折スカートを履く。なにしろ暑いときにラクだし、かっこいいと思うから。 おれは髭を生やすしスーツも着る。でもスカートも履きたい。男のあっけない腰まわりからすとんと布が落ちるているのは美的にもナイスじゃないか。なにゆえ日本ではスカートは男のチョイスではないのか。浴衣なんて実質ワンピースだ。着流しの男を見ろ。ああいう感じのシルエット超いいじゃん。 そうし

                                                                                  おれにスカートを履かせろ - 傘をひらいて、空を
                                                                                • パンとコーヒーとアフリカの夢 - 傘をひらいて、空を

                                                                                  疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。誰がどうみても「よぶん」でない最後の聖域は食料品と日用品の買い出しである。 僕はカフェを経営している。そしてわりと空気を読むタイプである。空気を読んで早々に業態を切り変えることにした。テイクアウトのみの営業にし、店内での食事のためにつくっていたパンも売ることにした。パン屋です、みたいな顔をしていれば本命のコーヒーやコーヒー豆を売る場を保つことができる。僕はそう考えて小麦粉を大量に仕入れ、パンを焼いて焼いて焼きまくった。 僕は恐れている。国家と自治体とそれから近隣の、よくわからない相互監視を恐れている。近隣の個人商店同士のあいだにも自粛度合いを監視する動きがある。「良い子にしていない者は排斥するべきだ」という空気が醸成されつつある。「良い子」の基準はない。ないからどんどん用心深くなる。なにしろ、不要不急に見える外出をすると

                                                                                    パンとコーヒーとアフリカの夢 - 傘をひらいて、空を

                                                                                  新着記事