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光明天皇 足利尊氏の検索結果1 - 10 件 / 10件

  • 歴史人物スイング 足利尊氏 室町時代1人目 - 素振り文武両道

    皆様、ご機嫌いかがでしょうか。 本日は【160】バットを振りました。 今日は歴史人物、足利尊氏を読みながらバットを振りました。 室町時代1人目。 足利尊氏あしかがたかうじ ウィキブックスより引用。 後醍醐天皇は 天皇中心政治をしたく、 幕府に2回争いを仕掛け敗北。 島根に追放される。 しかし後醍醐天皇は島根から脱出、 3度目の争いに挑む。 この時に尊氏は天皇軍に加わる。 その後色んな場所で戦い、 幕府を滅ぼした。 しかし尊氏は 天皇政治に不満を持ち、 武士政治を取り戻そうと、 光明天皇を即位させた。 後醍醐天皇を奈良に追い払い、 光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。 ピンクの12行を 【言ってバットを振り】ました。 1行5回ずつ繰り返し60振り。 足利尊氏くらいの人物が現れないと、現政権に勝てない気がします。 全員が選挙に行けば、勝つかも。 本日の素振り文武両道の概要。 2

      歴史人物スイング 足利尊氏 室町時代1人目 - 素振り文武両道
    • 建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 安心感の研究 by 暖淡堂

      こんにちは、暖淡堂です。 歴史に関心があって、色々と歴史書などを読んでいても、鎌倉幕府体制の終了から建武の新政、南北朝にかけての時代はわかりにくいですよね。 後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成の他、登場する人物も非常に多い。 後醍醐天皇は南朝なのは知っていても、例えばその時の北朝側で即位していた天皇は誰だったのでしょう。 この記事では、その辺りを確認した上で、南北朝と呼ばれ始める時代を簡単に振り返ってみたいと思います。 前南北朝時代 後醍醐天皇と足利尊氏 北朝の成立 北方謙三「道誉なり」で描かれる時代 前南北朝時代 鎌倉時代後期、天皇家は持明院統と大覚寺統の二派に分かれて、交互に天皇に即位していました。 この状態が生じていたのが、南北朝に分裂するきっかけとも言えます。 幕府はこの皇位継承に直接干渉し、皇室側も幕府に頼って自らの立場を維持しようとしていました。 鎌倉幕府を倒し、政治の実権を取り戻

        建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野に逃れたあと、足利尊氏が北朝で即位させた天皇は? 北方謙三「道誉なり」を読む - 安心感の研究 by 暖淡堂
      • 足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯 : Japaaan

        「尊氏は武家政権を樹立するつもり」だった? 室町時代初期(1337~1392)は、南北朝時代と呼ばれています。この約600年間、朝廷は京都と奈良の吉野に分裂し、武力抗争を繰り広げました。 そうした抗争の背景には、足利尊氏と後醍醐天皇の対立があったとされています。以下はかつての通説です。 尊氏は、鎌倉幕府討伐に参加した後醍醐政権の功労者だった。だが後醍醐に不満を抱き、武家政権樹立を秘かに目指した。 尊氏は謀反を企てたとして後醍酬から追討軍を派遣されるも、これを撃破。上洛を果たすと、比叡山へ逃れた後醍醐に代わり、光厳上皇の復帰と光明天皇の即位を支援し、北朝を立てた。 対する後醍醐は吉野に南朝を開いたことで、二つの朝廷が立つ時代が始まった――。 しかし最近では、こうした通説には疑問が呈されています。尊氏には武家政権を樹立する気はなかったという見方が、現在は有力視されているのです。 動機なき謀反

          足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯 : Japaaan
        • 北陸朝廷 - Wikipedia

          北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代に南朝方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。「北陸王朝」とも呼ばれる。 建武の新政は後醍醐天皇の情熱にもかかわらず、わずか3年で破綻。遂には光明天皇を奉ずる足利尊氏と、新田義貞らに奉じられて比叡山に籠もる後醍醐天皇が睨み合う一触即発の状況となった。この事態に足利尊氏は後醍醐天皇側に和議を申し入れ、後醍醐天皇もこれに応じて比叡山を下り京都へ戻った。時に延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)のことだった。 しかし、これに猛反発したのが、それまで後醍醐天皇に忠誠を尽くしてきた新田義貞である。講和となれば戦う目的を失うばかりか、戦いを続ければ逆賊の汚名を着せられることになるからである。義貞配下の武将堀口貞満が後醍醐天皇に「忿る面に泪を流し」(『太平記』)義貞の思いを代弁、ほどなく義貞も3000騎を

          • 逃げ上手の若君 原作ネタバレ

            北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃の諏訪氏に匿われる 10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義に勝利し鎌倉奪還。 わずか20日で足利尊氏に鎌倉を奪われる。 その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害、集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。 11歳 足利尊氏と後醍醐天皇が決裂、尊氏が光明天皇を立て、南北朝時代へ。 時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。 12歳 南朝公卿の北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。 翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。 数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡

              逃げ上手の若君 原作ネタバレ
            • 建武の乱 - Wikipedia

              建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日(1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。 後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕府は滅亡し、幕府が立てた光厳

              • 後醍醐天皇とは (ゴダイゴテンノウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

                後醍醐天皇単語 63件 ゴダイゴテンノウ 2.8千文字の記事 12 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 概要関連動画関連項目掲示板後醍醐天皇とは日本の第96代天皇である。 鎌倉幕府が滅んでから室町幕府が成立する前の時期に一時的に天皇親政を成し遂げ、また南北朝分裂時代の引き金を引いた天皇としても知られる。 概要 1288年に後宇多天皇の第2皇子として誕生。 当時の朝廷では後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統で派閥争いが生じており、鎌倉幕府の介入でお互いの天皇が交互に即位する「両統迭立」が取られていた。 大覚寺統の後醍醐天皇はこの両統迭立に嫌気が刺した上、承久の乱以来、朝廷にも盛んに口出しする幕府にも強く不信を抱き、天皇を中心とした平安時代の体制を時勢も顧みず取り戻したいと考えるに至る。 1324年に倒幕計画を立てるが、幕府の監査機関である六波羅探題に知られ失敗(正中の変)。 1331

                  後醍醐天皇とは (ゴダイゴテンノウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
                • 島津氏久と島津元久、奥州家のはじまり、大隅守護から三州太守へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

                  中世の島津氏の惣領は奥州家(おうしゅうけ)である。そもそも奥州家とは何なのか?   その始まりについて、ちょっと記事にしてみた。 島津氏が南九州の支配を確立するのは、南北朝争乱期のことである。その立役者となったのが島津氏久(しまづうじひさ)だった。この人物から奥州家は始まる。そして、奥州家2代目の島津元久(もとひさ)が、島津の惣領の座を手にすることになる。 南北朝争乱と島津氏 島津氏久の大隅攻略 島津 vs. 今川 島津元久、引き続き幕府に反抗 三州の守護 なお、北朝元号・南朝元号を併記する。日付については旧暦にて記す。 南北朝争乱と島津氏 12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が薩摩国・大隅国・日向国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の地頭職を任されたこと、そして3ヶ国の守護に補任されたこと。これが島津氏の始まりである。名乗りは島津荘にちなむ。 だが、島津忠久(惟宗忠久)は建仁3年(

                    島津氏久と島津元久、奥州家のはじまり、大隅守護から三州太守へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
                  • [地域][歴史]  太平記の世界 (1)−2 ”足利尊氏と東京浅草” - 旧聞アトランダム

                    足利尊氏と云えば太平記の世界ですが、もし東京浅草の要害が無ければ征夷大将軍足利尊氏は新田氏に討たれたか、自害していたかも。東京浅草に中世の武将足利尊氏の生死を分けた古戦場が存在したとは!歴史のロマンを感じます。 隅田川浅草今戸と待乳山 なにせ絵巻物語のような”太平記”の話ですから、詳細は”講談師見てきたような嘘をいい”の例えも在るでしょうが、大要は云われているところの歴史と同じなのかも知れません。 ものには順序があります。…南北朝時代の太平記の根幹から。 …武士階級の勃興により最早形骸化していた朝廷ですが、それでも寛元4年(1246)僅かに残る政治利権の相続に係わり大覚寺統と持明院統の二派に分裂して骨肉の争いになります。 見兼ねた鎌倉幕府が調停して両統が交互に十年毎に天皇になる取り決めが成立しましたが。…元弘三年(南朝側元号)(1333)に至り、大きな野望を胸に大覚寺統の後醍醐天皇が即位す

                      [地域][歴史]  太平記の世界 (1)−2 ”足利尊氏と東京浅草” - 旧聞アトランダム
                    • 第九十七代(南朝第二代):後村上天皇(ごむらかみてんのう)の檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ) - こばると歴史探訪ログ

                      後村上天皇の檜尾陵は大阪河内長野の観心寺境内にありました。 陵はわかりにくい場所にありますので、入り口の参拝受付で場所を聞いた方がよいです。自分で探すと見つけられないかもしれません。それと、天皇陵だけ参拝する場合は、参拝料金は必要ありませんので申告しましょう。 山門から右手の道をまっすぐ進みます。 途中石碑があるところを左折 宮内庁の表示があるところを登っていきます。 後村上天皇は、後醍醐天皇の七男(七宮)です。 後醍醐天皇は子だくさん。権力への執着心がとても強い天皇だったので、男性ホルモンも強かったのでしょう。 七男が天皇になりましたが、他の兄弟はどうなったのか。気になったのでまとめてみました。 一宮:尊良親王 後醍醐天皇第一皇子。母は二条為子。 父の後醍醐帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれますが、持明院統との政争に敗北して、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)です。

                        第九十七代(南朝第二代):後村上天皇(ごむらかみてんのう)の檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ) - こばると歴史探訪ログ
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