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光明天皇 足利尊氏の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯 : Japaaan

    「尊氏は武家政権を樹立するつもり」だった? 室町時代初期(1337~1392)は、南北朝時代と呼ばれています。この約600年間、朝廷は京都と奈良の吉野に分裂し、武力抗争を繰り広げました。 そうした抗争の背景には、足利尊氏と後醍醐天皇の対立があったとされています。以下はかつての通説です。 尊氏は、鎌倉幕府討伐に参加した後醍醐政権の功労者だった。だが後醍醐に不満を抱き、武家政権樹立を秘かに目指した。 尊氏は謀反を企てたとして後醍酬から追討軍を派遣されるも、これを撃破。上洛を果たすと、比叡山へ逃れた後醍醐に代わり、光厳上皇の復帰と光明天皇の即位を支援し、北朝を立てた。 対する後醍醐は吉野に南朝を開いたことで、二つの朝廷が立つ時代が始まった――。 しかし最近では、こうした通説には疑問が呈されています。尊氏には武家政権を樹立する気はなかったという見方が、現在は有力視されているのです。 動機なき謀反

      足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯 : Japaaan
    • 北陸朝廷 - Wikipedia

      北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代に南朝方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。「北陸王朝」とも呼ばれる。 建武の新政は3年で破綻。光明天皇を奉ずる足利尊氏と、新田義貞らに奉じられて比叡山に籠もる後醍醐天皇の睨み合いとなったが、尊氏は和議を申し入れ、後醍醐もこれに応じて比叡山を下り京都へ戻った。延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)のことだった。 しかし、後醍醐天皇に忠誠を尽くしてきた新田義貞はこれに反発。義貞配下の堀口貞満が後醍醐天皇に直接抗議し、後醍醐天皇は義貞に勅して皇子の恒良親王を奉じて北国へ下るよう命じた。その理由は、「朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし」というものである。そして三種の神器を恒良に

      • 逃げ上手の若君 原作ネタバレ

        北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃の諏訪氏に匿われる 10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義に勝利し鎌倉奪還。 わずか20日で足利尊氏に鎌倉を奪われる。 その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害、集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。 11歳 足利尊氏と後醍醐天皇が決裂、尊氏が光明天皇を立て、南北朝時代へ。 時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。 12歳 南朝公卿の北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。 翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。 数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡

          逃げ上手の若君 原作ネタバレ
        • 第九十七代(南朝第二代):後村上天皇(ごむらかみてんのう)の檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ) - こばると歴史探訪ログ

          後村上天皇の檜尾陵は大阪河内長野の観心寺境内にありました。 陵はわかりにくい場所にありますので、入り口の参拝受付で場所を聞いた方がよいです。自分で探すと見つけられないかもしれません。それと、天皇陵だけ参拝する場合は、参拝料金は必要ありませんので申告しましょう。 山門から右手の道をまっすぐ進みます。 途中石碑があるところを左折 宮内庁の表示があるところを登っていきます。 後村上天皇は、後醍醐天皇の七男(七宮)です。 後醍醐天皇は子だくさん。権力への執着心がとても強い天皇だったので、男性ホルモンも強かったのでしょう。 七男が天皇になりましたが、他の兄弟はどうなったのか。気になったのでまとめてみました。 一宮:尊良親王 後醍醐天皇第一皇子。母は二条為子。 父の後醍醐帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれますが、持明院統との政争に敗北して、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)です。

            第九十七代(南朝第二代):後村上天皇(ごむらかみてんのう)の檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ) - こばると歴史探訪ログ
          • 島津氏久と島津元久、奥州家のはじまり、大隅守護から三州太守へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

            中世の島津氏の惣領は奥州家(おうしゅうけ)である。そもそも奥州家とは何なのか?   その始まりについて、ちょっと記事にしてみた。 島津氏が南九州の支配を確立するのは、南北朝争乱期のことである。その立役者となったのが島津氏久(しまづうじひさ)だった。この人物から奥州家は始まる。そして、奥州家2代目の島津元久(もとひさ)が、島津の惣領の座を手にすることになる。 南北朝争乱と島津氏 島津氏久の大隅攻略 島津 vs. 今川 島津元久、引き続き幕府に反抗 三州の守護 なお、北朝元号・南朝元号を併記する。日付については旧暦にて記す。 南北朝争乱と島津氏 12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が薩摩国・大隅国・日向国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の地頭職を任されたこと、そして3ヶ国の守護に補任されたこと。これが島津氏の始まりである。名乗りは島津荘にちなむ。 だが、島津忠久(惟宗忠久)は建仁3年(

              島津氏久と島津元久、奥州家のはじまり、大隅守護から三州太守へ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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